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SIDE:イグチナ「洗濯女中の休日(上)」
時系列的には洗濯女中へのお手つきが終わり、屋敷の中が少し落ち着いた状況の話となります。
洗濯物の干し場では、白いシーツが気持ちの良い風に晒されて帆のように揺れており、そこに立つわたしは洗い立てのウィル坊ちゃんの下穿きを吊るすまえに軽くパンパンと丁寧に振りさばいていた。
これをしておくことで乾いたのちのアイロンがけも随分と楽になるのだ。
背の低いわたしがブルブルと爪先立ちになって下穿きを吊るそうと奮闘していると、すっと上からつかみ取られた。
振り返ると長身の栗毛の女中がその下穿きを頭上に吊るしているところであった。ブリタニーはこちらを見下ろしてにっこりと微笑みかけてきた。
「ねえ、イグチナは明日お休みを取るのよね? ちょっとお願いをしてもいい?」
「なにか買ってきてほしいものでもある?」
わたしはそう尋ねた。
休みを取った女中は町での買い物を頼まれることが多いのだが、またあの子たちに与えるお菓子だろうか。
「ルノアとニーナに読み書きを教えてあげてほしいの」
「そう来たか……」
わたしは頬に手を当て、調理場のおチビたち――少しおしゃまになった黒髪のルノア、まだわんぱく盛りの金髪のニーナの顔を思い浮かべながらどう返事をしたものかと考える。
二人のことは可愛く思っているし、元々教えるのは嫌いな性質ではない。読み書きくらいなら頼まれたらいつでも教えてあげるつもりではいる。
「うーん、どうしようかしら。久しぶりに町に下りようかと思っていたのだけど……」
たまの休みなのだから、町の酒場で一杯引っ掛けたい気分だったのだ。娘のヴェラナの卒業が正式に決まったことに、個人的にささやかな祝杯をあげるつもりでいた。
苦労して育てあげたヴェラナがじきに自分の手を離れるのだ。感慨深くもなろう。
「あら、困ったわ。ルノアもニーナも、お屋敷の女中になるからお勉強なんかいらないって言い出してるのよ」
「はあ!? あの子たち、せっかくブリタニーが教えてくれてるのに、なにワガママ言ってるのかしら! 勉強は大事よ! 最低限の読み書きくらいできないで将来どうするのよ!?」
「わたしも基本的にイグチナの言うとおりだと思うけど、二人ともまだ親に甘えたい年頃なのよ」
「そうやってブリタニーはいっつもいっつも甘やかすのだから。本人たちのためにも厳しくいかないとダメよ! 頭が悪いと簡単な損得勘定もできず悪い男に騙されて一生苦労したりするんだから! 人生の選択肢も広がらないんだからね!」
それは、いままさに気色ばんでいるわたし自身のことである。
その苦い経験が骨身に染みついているからこそ、わたしは目を悪くしてまで独学で勉強したし、娘のヴェラナを一女中の分際で無理してまでシャルロッテに通わせているのである。
「ね、だったらイグチナが厳しく教えてあげて。二人とも喜ぶから。口では文句を言いつつも二人ともだいぶんお勉強が楽しくなってきた様子なの。いまのうちにどんどん教えてあげたいわ。ね、鉄は熱いうちに打てって言うでしょ」
そこでようやく、ブリタニーにうまく誘導されたと気がつき、わたしは苦笑を浮かべたのであった。
「買い物は午前中に済ませるからお昼下がりからなら良いわよ?」
これで町のパブには行けなくなったが、まあこういう日もあっていいだろう。ついでにお菓子を買ってきてあげたらブリタニーが喜ぶ。
「ありがとう。イグチナ」
「気にすることはないわ。それにしても、ウィル坊ちゃんもロゼも凄いわよね。王立学院の首席にシャルロッテの首席よ。うちのヴェラナも卒業だけはできる予定なんだけど……」
「あら、卒業決まったのね、おめでとう!」
ブリタニーは、にっこりとお祝いをしてくれた。
自然とわたしの口元がゆるむ。
「まあ、うちの出来の悪い娘は落第ギリギリだったみたいなんだけどね。高い学費払ってんだから、もうちょっと頑張ってほしかったわ。やっぱり子は親に似るものなのかしら」
「イグチナ、照れ隠しでもヴェラナが傷つくからそういうことは言っちゃダメ。ウィル坊ちゃんやロゼみたいな子は本当に特別なんだから」
「まあ……そういうことなんだけどね」
「女中の子は女中ということでいいじゃない。ロゼもヴェラナもお屋敷の女中になるんでしょ。だったら二人ともなにも変わらないわ」
わたしはそう諭されて苦笑を浮かべる。
この栗毛の同僚はやっぱり本当に性格が良い。
うちの出来の悪い娘は、相変わらずこのお屋敷の女中になることを希望しているようなのだが、さてさて、わたしがお願いすればウィル坊ちゃんは聞き入れてくれるであろうか――
‡
昼下がりにわたしが使用人ホールに向かうと、そこには椅子を並べるルノアとニーナに、マイヤが後ろから屈み込み、文字の読み書きを教えているところであった。
「うん、ルノアの方はいいんじゃねえか。頑張れば手紙くらい、もう書けるだろ」
「えへへ」
「おい、ニーナ。そんな文字はねえだろ。勝手に作んな。アルファベットの数なんざ知れてんだから、そのくらいキリキリ覚えちまえって」
「うー、しっぱい、しっぱい。あ、イグチナだァ!」
「イグチナせんせい、今日もよろしくおねがいします」
前回かなり厳しく教え、叱りもしたつもりだが、ルノアとニーナは屈託のない笑顔を向けてきた。
「マイヤが教えてくれるなら、わたしいらなかったんじゃないかしら?」
「こう見えてオレも結構忙しい身でな。ずっとチビどもの面倒はみれねえよ。それに大して知識もねえしイグチナみたいに上手く教えられねえわ」
「マイヤだってチビのくせにー!」
「くせにー!」
「うるせえ! さあ、あとはイグチナ先生の出番だ」
そう言って、小柄な女中はわたしに場所を譲る。
「さあ、今日は算数のお勉強よ」
わたしがそう声をかけると二人は眉をへの字にした。
「算数きらい」
「きらいー」
「調理場でやっていくなら、簡単な掛け算や引き算くらいできるようにならないと。出入りの業者さんに食品を卸してもらわないといけないんだから。もし騙されて数字を誤魔化されでもしようものなら、リッタは許してくれても、あとでトリスにこってり絞られるからね?」
そう諭すと二人は渋々といった感じで、はーいと机に向き合う。
「イグチナの言うこと聞いてれば間違いねえよ。オレもな、イグチナが読み書きや算数を教えてくれたおかげで助かったし、いまかろうじてウィルの側付き女中が務まっている。イグチナには本当に感謝してるよ」
不意打ちで思わず涙が出そうになった。
トリスのようなちゃんとした教師ではないだけに、なおさらこういう率直な感謝の言葉は心に刺さるのだ。
「教えたのはあたしだけじゃなく、トリスやブリタニーもでしょ。分からないフリしてウィル坊ちゃんの寝室にまで何度か教わりに行ってたのも知っているんだからね」
「へへ、バレてたか。あのときは、そうでもしねえとなかなか会いに行く口実が作れなかったんだよ」
「マイヤ、ずるーい、わたしもウィルさまのところに遊びに行きたーい」
「行きたーい」
「おお、行け行け。ただし今日のイグチナの授業を真面目に受けて、もっと賢くなってからな。オレが許す。けけ、邪魔しちまえ」
赤毛の少女の言葉に、二人の幼女が目を輝かせた。
「ねえ、イグチナ早く教えてー。もっと頭良くなってウィルさまのお部屋に突撃するのー」
「はやく、おしえてー」
「よし、じゃあ、イグチナ。あとは任せた」
「ふふ、分かったわ」
優しい気持ちになったのも束の間、マイヤは広い使用人ホールから立ち去る間際、こちらに振り返って声をかけてきたのである。
「イグチナ。ウィルのやつが今晩、部屋に来るように言ってたぞ。オレは伝えたからな」
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