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第四話「奴隷の丘に立つ少女」

 百万ドラクマの女が売られている場所は、さきほどウィルがうっかりと壁に耳を当てた、あのひときわ大きな丸い天幕ユルトであった。
 外周をぐるりと伝っていくと、入り口に人だかりが見える。
 百万ドラクマの値札がついているだけあって、人々の関心も高いようだ。
 近くの看板には、『希少な銀髪の山岳民族。売値百万ドラクマより』と書かれている。

(うわあっ……!)

 その短い説明に、ウィルは興奮した。
 銀髪の山岳民族という条件にがっするのは、ぎんろうぞくしか思いつかない。
 銀狼族は、北西の国境を越えた山岳と、草原地帯に暮らしていた少数民族のことである。
 野生のおおかみのような光り輝く銀髪とはくいろの瞳が特徴的であり、また銀狼の名を冠するに相応ふさわしい勇猛さで知られている。
 近年、王国軍は銀狼族の村を滅ぼした。その際にたかだか千に満たない少数民族の村を潰すのに、千を超える兵士が死傷したという。
 ウィルは強く興味を引かれた。
 だが、ひとがきの前の方を背の高い男たちが囲んでおり、ウィルの視線がはばまれている。

(……邪魔だなァ)

 おそらくは、どこぞの貴族の使用人――従僕フットマン従者ヴァレットであろう。
 背の高い使用人が好んで雇われるのは見栄えがするからである。良い馬をゆうするように、背の高い男性使用人を連れ回して見せびらかすことが、上流階級の格式にとって重要だと見なされていた。
 ウィルはその場で飛び跳ねてみたものの、高い背に阻まれてなかなか銀狼族の女の姿を視界に捉えることができない。
 まだ背の伸びきらない我が身が恨めしくなる。
 たまたま近くにあった木箱に乗っかり、つま先立ちになってぷるぷると震えながら背筋を伸ばしてようやく、

(見えた……!)

 人だかりの中心にいる女性の髪は、日に照らされてはがねのように輝いていた。女は首の後ろに両手を回して長い銀髪をかきあげ、豊満な肉体を見せつけるように背をらしていた。
 遠目に見ても、たしかにれいなことは分かるが、

(あれ? 気のせいか……)

 女は盛んに胸や尻を振っているように見える。場は盛り上がっているようなのだが――

(とにかく、近くまで行ってみよう……!)

 さきほど壁に耳を当てたときに、天幕の壁材がやわらかい材質でできていることに気がついた。
 ウィルは恥もがいぶんも捨てて、壁と人垣の間に身体からだを押し込む。
 ずりずりと顔や服を引っ張られながら、すきうようにして強引に割り進んでいった。

「ちょっと! 押さないでったら!」
「坊主! 順番を守れ!」

 ときおり聞こえるせいを無視して、ひたすら人混みをき分けた。
 後ろから髪を引っ張られる。それを乱暴に払う。

(ぼくの邪魔をするな――――お、ちょっとだけ見えたっ!)

 ともすると、気弱に見られがちな少年らしからぬ強引さである。この少年には、欲しいものを手に入れるのにちゅうちょのないところがあった。
 苦しい体勢で壁に押しつけられること数分。ようやく、銀髪の女性の姿をじっくり観察できる入り口付近のポジションを、確保できた。
 ウィルは肩で息をしながら、目当ての女をじっくり観察する。

(あれが……?)

 女の髪は文字どおりのぎんで、腰のあたりまで伸びている。たしかに髪は、銀狼族という看板どおりに美しい。
 足はすらりと白く長く、女性にしては背が高い。胸は南瓜かぼちゃ西瓜すいかのように大きく迫力がある。体形はトリスに似ている。たしかに美人は美人で、出るところは出て、引っこむべきところは引っこんでいる。
 だが――

(うーん。なんか思っていたのと違う……)

 トリスのようなある種の気品は、まったく感じられない。はっきり言って下品に思えた。
 女は近くにいる男のあごを触るなど、ボディタッチを繰り返している。周囲の男たちは大喜びなのだが、どちらかというとうわさに聞くすえのストリップ劇場さながら、といった雰囲気であった。
 女は、鼻の下を伸ばしているあごひげの中年男性に狙いを定めたらしく、毛深い男の腕に胸をなすりつけ、盛んに天幕の入り口のほうへと、くいくいっと腕を引っ張っていく。奥にはてんがい付きのごうしゃなベッドが置かれているのが見えた。
 ウィルは落胆していた。
 銀狼族にはその名の伝説のとおり、野生の狼のように人にびないだかい存在であって欲しいと願っていたのだ。
 いざなわれた顎鬚の中年は、鼻の下を伸ばしながら難しい顔をして悩んでいる。

(たしか性交渉の相場は、だいたい売値の十分の一くらいって、トリスが言っていたかな)

 百万ドラクマの十分の一だと十万ドラクマ。
 それだけで、さきほど泣きそうな顔をしていた赤毛の奴隷が買えてしまう。

(ははん。狙いが分かった気がするぞ)

 ウィルは口をひん曲げた。
 最初からこの女は、不特定多数に売春して稼ごうとしているのだ。そう見当をつけた。

(はたして、そんなにうまく行くかな……。だいたい、こんなに囲んでいる人がいっぱいいたら、天幕のなかに入っても衆人環視とおんなじじゃないか……)

 なかには、さきほどウィルがやったように、壁に耳を当てる人間もいるかもしれない。
 この顎鬚の中年もそれなりに金持ちなのだろうが、十万ドラクマ払う余裕があるとはとても思えなかった。
 ウィルは人ごとのように心配する。
 顎鬚は、周囲の観客から「行け、行け」と盛んにあおられ、最後の決断を下すために、ぎゅっと指を握りしめているところであった。
 それは破滅的な選択肢に違いない。

(ああ……なんか、もう見ていられない)

 少年は手で顔をおおいながらきびすを返そうとして――

「あっ……!」

 うっかり足元の小箱を蹴飛ばしてしまう。
 小箱は中身がまっていないのか軽い。ころころと転がり、銀狼族を名乗る女の足にかつんと当たって止まった。
 ぱかっとふたが開き、中からきらきらと光る毛玉のようなものが転がり出た。
 次の瞬間、女の顔はそうはくとなり、耳のあたりを両手で押さえ、「ひぃっ!」と短い悲鳴をあげた。
 それから自身の銀髪をひとふさ手にとって、「あれ。ついてる」とつぶやく。
 箱から転がり出た丸い毛玉――それは銀色のかつらだった。
 女の反応を見て、人々が次々に叫びだす。

「おい! どういうことだ!」
「ちょっと髪を触らせてみろ」
「や、やめて! ひっぱらないで!」

 髪をつかまれた女が悲鳴をあげる。
 だが抵抗もむなしく、ずるりと鬘が脱げて赤い地毛があらわになった。

「なんだこれは!」
「鬘かよ!」
「銀狼族の生き残りというのはうそだったのか!?」

 集まった群衆が口々に罵声を浴びせる。

「百万ドラクマもだまし取ろうとしたのか。ふてえアマだ」
「べつにわたしが全部もらえるわけじゃないわよ!」

 女も逆上して怒鳴り返す。
 あわてて奴隷商人とおぼしき頭の禿げた小男が進み出てきた。

「お客さまがた、わたしの奴隷に傷をつけたら、王国の奴隷法で罰せられますよ!」
「なにを厚かましい! 俺たちを騙そうとしやがって!」

 群衆の一人が商人のえりくびをつかもうとする。
 それに対し、後ろにいたくっきょうな護衛が男の手をひねりあげる。

「いてて! なにしやがる!」
「うちの主人に乱暴はやめてもらおう」

 一触即発の空気である。

「この噓つきめ!」
「表の看板をみてください。わたしは一言も、この娘が銀狼族だと言っていませんよ!」

 ウィルが思わず「あああ」とためいきをついた直後――ついに殴り合いが始まった。
 たしかに噓は言っていないのかもしれないが、奴隷商人の言葉は、群衆の怒りの火に油を注ぐ結果となった。どうりで表の看板には説明書きが少なかったわけだ。ウィルもつられたクチだから腹は立つ。
 衛兵があわてて駆けつけてきたが、人数が違いすぎてどうにもならない。まさか金持ち同士が本気で殴り合うことなど、最初から想定されていない。
 なかには、あらごとに慣れてそうな大柄な体格の従僕や従者を連れてきた主人もいる。このまま騒動に巻き込まれるのは危険だ。

「よっと」

 ウィルは、するすると柔らかい天幕の壁をよじ昇った。
 思ったよりも骨組みはしっかりしていて、幸いなことに、軽いウィル一人が乗るくらいなんともなかった。
 騒ぎを見下ろす。ここからだと全体がよく分かる。
 最初のうちはぜいぜいで、いかれる群衆に商人側が押し切られるように思われたが、事態は思わぬ方向に進みつつあった。

「いってえな!? てめえ! 俺は関係ないだろ!」

 少し離れた場所で怒鳴り声がしたと思ったら、「なにしやがる!」とまた別の場所でも。
 いかなる偶然か同時多発的なけんが勃発して、収拾がつかなくなっていく――

「うわ、まさかこんなことになるなんて、まいったなァ……」

 ウィルは、小箱を蹴飛ばしたことが騒ぎの発端であることを思い出して渋い顔を浮かべつつ、周囲をぐるりと見回した。
 会場にはマッシュルームのように、あちこちに白い天幕がぽこぽこと立っているのが見える。
 どこも大事な商品を傷付けられてはたまらないと、天幕の入り口を閉めはじめていた。

(ぼくも、どこかに避難したほうが良さそうだなあ……)

 ウィルは北に足を向ける。その方角が一番閑散としていたからだ。


   ‡


『入り口からすぐ左手がうちのスペースです』

 結局ウィルは、さきほどの赤毛のやさおとこに教えられた奴隷の仮置き場に来ていた。
 このあたりはなだらかな丘が続いている。

『あのなかに一人、生意気なのですが力だけはやたらに強いのがいましてね』

 あの男はそのようなことを言っていた。
 きょろきょろと周囲を見渡してみたのだが、大柄な男は見当たらない。きんこつりゅうりゅうどころか生気なく地に倒れ伏す、枯れ木のような手足をした奴隷ばかりである。
 あおけに倒れている子供の眼球にはえが止まるのを見て、ウィルは顔をしかめた。としはウィルに近いように思える。
 だが、奴隷市場でのこれまでの経験が、その子が生きているのか死んでいるのか、これ以上考えることをウィルに放棄させた。
 このあたり一帯には死体置き場モルグのような死臭がただよっており、ここにいるだけで背筋が薄ら寒くなる。早足で歩いていくと、すぐに丘のいただき辿たどり着いた。

(そろそろトリスが心配しているころだろう)

 暴動騒ぎもあった。早く姿を見せて安心させてあげたい。
 来た道を引き返そうとして、岩陰に隠れていた頑丈そうなおりがふと視界に入り、

(――――!?)

 その檻のなかで静かに天を見上げる少女の存在が、ウィルの足をい止めた。
 ぼろ布をまとった少女は、猛獣が入るような太い鉄格子のなかに閉じ込められており、檻の隙間から空を見上げている。
 肩の下まである長い髪は、ねずみ色にくすんで見える。白っぽい前髪は眉の上でまっすぐに切りそろえられていた。髪の毛から粗末な服に至るまで、全身はいかぶりの薄汚い格好だったが、眼光は異様に鋭い。
 少女は両脚を鎖でつながれながら、ぜんとそこに立っているのだ。生気なく転がっている奴隷たちのなかで、少女の存在だけが異質である。
 足を向けると、少女はこちらを振り向いた。

(うっ……)

 気のせいか、いぶかしげに睨みつけられた気がする。だが、すぐに関心を失ってウィルから視線をらした。
 近づいてよく見ると、すすで汚れているだけで、顔のつくり自体は、はっとするくらいに整っていることにウィルは目を見張った。おそらくウィルと同じくらいの年齢だろう。

「何をしているの?」

 近づいて、ウィルがそうたずねると、

「立っているのだ」

 少女は思ったよりもはっきりした口調で答えた。
 鈴のように綺麗に通る女性の声なのだが、どこかぶっきらぼうで武骨さを感じさせた。

(立っている……?)

 ウィルは首をかしげ、

「どうして座らないの?」

 素朴な質問を投げかけてみた。

「自分の大地に立っていられない人間に天の恵みを受け取る資格はない――というのが一族の教えだからだ」

 さも当然といった口調であった。
 たしかにここで大地をしっかりと踏みしめていなければ、ウィルは少女に気がつくことなく、歩き去っていたことだろう。奴隷に身をとし、檻のなかに入れられても眼光は鋭く、意志の力を失っていない。
 ウィルは、少女の強さを好ましく思った。

「ぼくになにか助けてほしいことはある?」

 ごく自然にそう訊ねると、少女は首を振って、

「わたしはものいではない」

 そう言い返したのだ。

(なんというきょうだろう! まるで人に媚びない草原の狼のようだ)

 少年は昔から誇り高い生き物が大好きであった。

「恵まれるのが嫌ならぼくと取引しようか。ろうから出してあげる。その代わりとして、きみはなにを差し出してくれる?」

 ウィルがそう言うと、少女は両目を大きく見開いた。
 はっとするほど綺麗な琥珀色の瞳が、ウィルをく。
 それから少女は突如、水気を払う動物がするように、激しく髪を左右に振ったのだ。
 灰色の頭からもうもうと大量の煤が舞い上がる。

「うっ、けほっ、けほっ!」

 少年は軽くき込みながら、目のまえに漂うすすけむりを手で振り払った。

(なんなの、もう!)

 抗議しようと口を開きかけたとき、さらさらと日の光を浴びて輝く銀髪が見えたのだ。それに目を奪われる。

「わたしは銀狼族の出身で、名をソフィアという」
(えっ!? いま銀狼族って言った? 本当にあの銀狼族……?)

 ウィルの瞳が宝物でも見つけたかのように大きく見開かれた。

「ふむ――」

 少女の方は、ウィルの頭のてっぺんから爪先まで遠慮のない視線を上下させてくる。それを不快だとは思わない。少女の琥珀色の瞳に打算の色合いはなく、むしろ神秘的な透明感が感じられた。
 それを受けて、令息は胸に手を当てる。

「ぼくの名前はウィリアム=マルク。ウィルって呼ばれている。一応これでも伯爵家の人間だから、その気になればきみを檻から出してあげることもできる」
(たぶん……)

 と密かに付け加えつつ、少年はそう自己紹介をした。

「この国の貴族か。こんな少年がわたしの運命だとは思わなかった」
(……運命?)

 ソフィアと名乗る少女の言葉に、ウィルは首を傾げる。

「おまえがここに来ることは、あらかじめ予言されていた」

 それを聞いた少年は、眉を寄せかなしげな表情を浮かべる。
 檻のなかの生活で気が触れてしまう奴隷もいるという。少女もそのたぐいだろうか。

「――おい。ちょっと待て。いまわたしのことをぐるいだと思っただろう。わたしの妹には人の運命を予言する力があるんだ」

 ウィルはじっと少女の琥珀色の瞳を見つめる。
 そこには理性の光が宿っているように見えた。少なくとも狂人の目ではない。

「ぼくがここに来ることも予言されていたというの?」

 こくりと少女は迷いなくうなずいた。
 ウィルはますます困惑する。

「わたしの望みは一つだけ。半身である双子の妹マリエルを取り戻したい――」

 そう言ったとき、少女の瞳の奥が火打ち石でも打ち鳴らすように、カッと金色にまたたいた気がした。

「わたしは銀狼族のだ。わたしには一族の長である妹を――かんなぎを守る義務がある」
(神子……? 神巫……?)

 両方とも耳慣れない言葉である。
 銀狼族のさいにかかわる指導的な地位なのだろうか。ウィルは思案する。

「予言を悪用されたら大変なことになる。神から授かった力をおのれの欲望のために使ってはならない」

 少女は力強くそう言い切った。
 正直なところ、少女の言う予言の力というものをどのように解釈するべきかウィルは図りかねていた。
 たしかに王国の軍隊を何度も撃退した銀狼族なのだから、なんらかの特技のようなものがあってもおかしくはない。

(でもねえ……。いくらなんでも未来を予言するなんて)

 じっと少女の顔を見つめると、琥珀のように透明感のある瞳がまっすぐウィルを見つめ返してくる。
 少女は煤だらけだが、目鼻顔立ちはすっきりと整っており、とても綺麗だった。
 そして奴隷の身に堕ちたにもかかわらず、毅然と顔を上げているのがいい。
 一族の運命を背負う少女の細い肩を見ていると、なんだか抱きしめたい気持ちにさせられ、少年は自分の心の芯に火が入っていくのを感じていた。

(予言の話はよく分からないけど、この子の妹を探してあげてもいいな。ただし――)

 心臓がどくどくと激しくどうするのを感じる。ウィルは自分の意思を伝えるために口を開く。

「きみの妹を見つけてあげる。その代わりきみはぼくのものになるんだよ?」

 その瞬間、くわっと少女の瞳が見開かれた。
 自分の欲望をここまではっきりと口にしたのは人生ではじめてである。
 奴隷に身を落とした少女が差し出せるものは、少女自身の身体しかないようにウィルには思える。
 ウィルは息をひそめて、じっと少女の様子をうかがう。
 少女は、覚悟を固めるように一度ぎゅっと目をつぶり、くやしそうに顔を赤らめ下唇をむ。そして両手を握りしめドンドンッと足を踏みならした。
 そのぐさに親しみを覚えるとともに、二人の間を挟む鉄格子がブンッと揺れ、鉄の重そうな響きにウィルは思わず頑丈そうな檻を見回し、なんとなく覚えた違和感に首を傾げる。

「……い、妹を取り戻したとき、おまえに身体をゆだねよう」
「ダメだよ! 先払いだ。きみはぼくだけの所有物になるんだ。身も心もね」

 少年は断固として首を左右に振った。
 銀髪の少女は下唇を嚙んだまま、むうっと睨みつけてくるが、ウィルは引くつもりがない。

(牢屋から解放した上、妹を探してあげるって言っているのだから、十分すぎるくらいだよねっ!)

 少し痛む良心をすように、自分に言い聞かせた。

「この身を後でささげることは構わない――だが、妹を取り戻すまでこの身は純潔でなければならない。それがどういうことかおまえに理解してもらうために、神子としての力を示そう」
「へっ? 神子としての力……?」
「いまからそれを見せてやる。檻のなかには、ほとほとうんざりしていたところだしな。離れていたほうがいいぞ」

 少女は足元の重りのついた鎖をひょいと無造作につかみ、細い腕で左右にうーんと引っ張った。
 ウィルよりもきゃしゃな腕なのだ。
 猛獣でも繫げそうな鎖を、よくその細い腕で持ち上げたと感心したくらいである。

「いや、無理だって……」

 ウィルがそう笑いかけたとき、キンと鋭い音が鳴った。
 鎖はあっけなくれていた。

(う、噓……?)

 もう片方の足の鎖も同じように持ち上げて引っ張る。
 再び金属質な音が聞こえたと思った瞬間、飛び散った鎖の破片がウィルの頰を掠めた。赤い血がたらりと顎の下に伝う。
 それから、今度は鉄格子の鉄の棒を、引き戸でも開けるかのように、その細い両腕でつかむ。

「しょっと……んぐぐ」

 そのまま左右に引っ張る。

(ま、まさか……)

 この檻は、熊やライオンといった猛獣でも、問題なく閉じ込めておけるだろう。それくらい頑丈な造りをしている。
 だが、少女の手が震えるごとに、ぐっぐと少しずつ隙間が広がった。ギギギと鉄がきしみ音を立てている。

(え、ちょっと……)

 やがて少女が歯を食いしばって腕を震わせると、太い柱がみるみるゆがんでいく。
 銀狼族の少女は、窓でも開け放つように、そのまま一気に左右に両手を伸ばす。
 耳をつんざく重い鉄の軋み音がしたあとには、カーテンのように鉄の支柱が左右に寄せられていた。
 ウィルは、ぽかんと口を開ける。

『あのなかに一人、生意気なのですが力だけはやたらに強いのがいましてね』

 ギュンガスの言葉が耳によみがえる。この娘こそが、その奴隷だったのだ。

(こんな細い腕のどこにそんな力が……)

 試しにウィルも鉄の柱の一本を力一杯引っ張ってみたが、びくともしない。

「もう通れるだろう」

 檻の中央にできた穴をくぐり抜けたあとは、華奢な背筋を反らし、気持ち良さそうに銀髪を風に遊ばせる。
 奴隷の丘の上で伸びをする、一匹の野生の狼がそこにいるのかと錯覚した。

「この力は処女でなくなると失われてしまう。だから妹を見つけるまで純潔を捧げるわけにはいかない」

 やれやれ困ったとばかりに、銀狼族の神子は言ったのだ。



◇ 用語解説 ◇

銀狼族
マルク領から遠く北西に離れた山岳と草原地帯に暮らす少数遊牧民族。
銀狼の名前を冠するに相応しい美しい銀髪と、野性の狼のような琥珀色の瞳を身体的な特徴とする。先祖代々まじないの力が伝わっていると言われており、近隣の部族から敬われ、同時に恐れられてきた。
これまで攻めこんできた外敵を狼にたとえられるほどの勇猛さで、ことごとく返り討ちにしてきた。近年、王国軍の火力のまえにすべもなく敗退し、銀狼族の村は潰滅した。

銀狼族の戦士の長であり人並み外れた身体能力を授かっている。ソフィアの腕力は猛獣の檻の鉄格子さえも曲げてしまうほどである。清らかな乙女でなければならず処女を失えばしんの力も失うようである。

神から授かった予言の言葉で銀狼族に道を示す存在。ソフィアによると予言の言葉は百発百中だが、曖昧かつ不親切でそれほど万能なものでもないそうだ。と同様に処女を失えば予言の力も失うようである。




第四話「奴隷の丘に立つ少女」へのコメント:
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