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第三話「赤毛の高級奴隷」

 二人の守衛が並んでいる門を通り過ぎるときに、両側からうやうやしく敬礼をされた。
 ここより先は、奴隷市場のなかでもじょうきゃくのみ入場を許されるエリアであった。
 トリスに連れられて、ウィルはきょろきょろと辺りを見回しながら歩く。丸型の天幕ユルトが大小いくつも並んでいるのが見えた。
 同じ奴隷市場の敷地内であるが、汚い身なりで地面をう奴隷はもういない。打って変わって清潔感があることにホッとしていた。

(随分とにぎわっているんだなあ……)

 その多くは貴族を押しのけるほどの勢いで勢力を伸ばしている中流階級の成功者たちであろう。ここでは売り手も買い手も見た目を取りつくろうだけの余裕があるように感じられた。

(さっきは奴隷市場がどういう場所か、ぼくに教えるために横切ったんだろうな……)

 ときどき教え方に容赦のないところはあるものの、大抵のことはトリスの言うとおりにしておいて間違いない。
 横目で見上げる女は、家庭教師の顔をしている気がした。女の美貌はウィルの幼少時より衰える気配をじんも感じさせない。歳を取るのを拒絶しているかのようだ。

「どうかしましたか。ウィル坊ちゃま?」
「う、ううん。なんでもないよ。変わった建物だなあと思っただけ」

 ウィルはあわててそう答え、トリスの横顔を凝視していたことをした。
 天幕はマッシュルームのように、純白の布地がふくらんだ外見をしている。遊牧民はこのような天幕を使って移動生活を営むと聞く。組み立てやすいよう、簡単な骨組みでできているみたいだ。
 トリスは隣を歩きながら、黒の布地で包まれた大きな胸をウィルのほうに寄せてきた。
 その圧迫感に思わず顔を上げる。

「ん……。な、なに?」
「あそこに商品が置かれています」

 女は、天幕の入り口を視線で指し示す。
 色とりどりの花で飾られており、奥に人影が見えた。ここからだと顔はよく分からない。

(あれが売られている奴隷かな……?)
「健康な男の奴隷なら三万ドラクマ。見た目の綺麗な女の奴隷だと八万ドラクマ。教養や専門知識のある奴隷だと十五万ドラクマはかかります。どれにも当てはまらないとなると一万ドラクマといったところでしょうか」

 それなりに裕福な平民の年間収入が一万ドラクマほどだ。上客専門のエリアだけあって、相場がぐっと上がっている。

(ぼくは、これから人を……、お、女を買うんだ)

 改めて実感して、ウィルは息を呑んだ。
 興奮を抑えきれなくなり、呼吸が荒くなる。鼻の穴が広がりはじめた。口のなかが乾燥してきた。
 ウィルはこほんと軽くせきばらいをして、

「よ、予算はいくらくらい?」

 そうたずねた。
 トリスは、その質問に答える代わりに、

「あれを」

 長い指先を近くの天幕の入り口のほうへと向ける。
 手前に立てかけられた看板が見えた。

『売値十万ドラクマの好物件。赤毛。乳房はやや小ぶりだが、スタイル良し。性格従順。二三歳……』

 ウィルは息を呑んだ。乳房はやや小ぶりという説明があまりになまなましい。
 看板のすぐ向こうに、椅子に腰掛ける女の赤いスカートが見え、どきりとした。スカートのスリットは青白いふとももがのぞくほど深く切れ込んでいる。
 いざなわれるように、つい上半身を見た。
 両肩がき出しで、白い胸の谷間の露わな紅色のデコルテドレスを身にまとっている。
 小ぶりと書かれているとおり胸はそれほど大きくなく、うえちちの合わせ目は無理矢理作った感が強い。
 だが、鎖骨から首にかけての肌の白さが妙になまめかしい。
 そのまま視線でめ上げていると、うっかり顔の両側に赤毛の三つ編みを垂らした女と目が合った。

(うっ……)

 妙に男を落ち着かない気分にさせる青い瞳であった。どこか粘着質で湿った感じがする。
 だがそれも一瞬だけで、何事もなかったように女は軽く膝を折り、おだやかなしゃくをしてきた。
 それなりに綺麗な顔のつくりをしているが、かげに咲く花のようにどこか華やかさに欠ける。少し地味な顔で派手な衣装を着ているあたりに、いかにも売られている女の悲哀を感じさせるものがあった。

「身体を見ましょう」

 そう言って、横に立つトリスが人差し指を掲げ、犬に芸でもさせるかのように、くるりと指を回した。
 すると女はびくっと細い肩を跳ね上げ、あわてた様子で席から立ち上がる。
 やけに身体の線を強調するぴったりとした服だなとウィルは思った。
 『スタイル良し』と書かれているとおり、くびれたウエストに繫がる形の良い尻は、つい触りたくなる色気を発している。さきほどの貧相な身体の少女とは、明らかに質が違っていた。

 女は、自らをするように息を一つ吸い込む。
 そこからの女の身体の動きは、流れるようであった。見えないポールの周りでステップを踏み、全身のプロポーションを余すことなく見せつけてきた。

(おお……)

 何の踊りかは分からない。男の性欲を刺激する扇情的な動きであり、どことなく砂漠の君主スルタン後宮ハーレムにいる女を連想させた。
 トリスは背を屈め、ウィルの耳元に唇を寄せる。

「処女と書いてありませんから抱こうと思えば抱けますよ。相場は交渉次第ですが、だいたい売値の十分の一くらいです。娼婦を買うよりもかなり割高になりますが、一万ドラクマも払えば喜んで股を開くでしょう」
(ま、股を……)

 言葉の露骨さに頭がくらくらする。
 ウィルの視線は、売られている女のスカートの切れ込みに向けられていた。布地の合わせ目から覗くふとももは不健康なほど白い。
 望めば、すぐにでもあそこに分け入ることができるということだ。
 ウィルは、ごくりと唾を飲み込んだ。
 少年の青い性欲を感じ取ったのか、女のたいもびくりと震えた。

「訪れた客が寝たいといえば、奥でとぎをするのです」
(あ……。天幕ってそのために……)

 ようやく、この天幕がなんのためにあるのか分かったのだから、ウィルは自分のことを世間が分かっていない子供だと感じずにはいられなかった。

「女中は長く使う耐久消費財であり、のようなものとお考えください。もし迷われているなら味見をなさったほうがよろしいかと思います。あの女に興味がおありですか?」

 気持ちが揺れたが、

(う、う……。い、いや……、来たばかりだしね……)

 かなり際どいところで、かろうじて踏みとどまった。
 首を振って「もう少しよく探したい」と告げると、

「それがようございます」

 トリスはうんうんと頷いた。

「ウィル坊ちゃまの初めてのお相手なのですから、ご自身でこれぞと思う女をお選びください。あの程度の女はごまんとおります」

 そう囁いて、赤毛の女への用事は終わったとばかりに歩き出した。
 女中長として多くの女中を監督しているせいか、トリスは女性に対し、ときどきかなり辛口になる。
 ウィルもきびすを返そうとした瞬間、赤毛の女はもごもごと下唇をみ、思いめた表情で天幕の奥へと駆け込んだ。

(え……?)

 その様子には、いまにも手首を切るのではないかという悲痛さが感じられた。
 れいそくはあわてて女中長の背に訊ねる。

「ね、ねえ! トリス。さっきの女の子。びっくりするくらいかなしい表情をしていたのだけど……」
「よいところに気がつかれました。われわれが好物件を探している一方で、奴隷たちは奴隷たちで一生をささげる主人を値踏みしています。ウィル坊ちゃまが超優良物件だったからですよ」

 振り向いたトリスは、教え子を褒めるときの家庭教師の顔をしていた。

「超優良物件……?」

 そう言われて悪い気はしないが、いまいちに落ちず、ウィルは小首をかしげた。

「ぼくさっきの女性と初対面だよ?」
「さきほどの女はウィル坊ちゃまの姿を見て、裕福な生まれだと察したことでしょう」
「そりゃあ、この区画に入ってきてるからね」

 ここは、ある程度の金持ちでないと入場すらこばまれるエリアである。

「さらに坊ちゃまの服装から、どこぞの貴族のおんぞうだと察したことでしょう」
「ああ、なるほどね」

 ウィルは両手を広げて自身の服装を見下ろした。
 質の良い布地のジャケットにズボン、洗濯ランドリー女中メイドが腕によりをかけて洗ったシャツは、のりも利いていて下ろし立てのように真っ白だ。上着の胸元にはマルク家の紋章まで入っている。

「いえいえ。あの女にそのような細かいところまで分かりません。きするだけの教養がありませんから」

 これまで多くの女中を面接し、選んできたトリスの観察眼は信用できる。

「見たのは、坊ちゃまの靴ですよ。気がつかれませんでしたか?」
「靴?」

 たしかにウィルのいている黒の革靴はかなりの上物だ。

「毎日、女中がウィル坊ちゃまの靴を磨いているのです。靴に光沢があるということは、その状態を維持するだけの経済的余裕があるということですよ。奴隷に対しても余裕をもった態度で接してもらえるだろうと期待したことでしょう。どちらも消耗品ですからね。たとえ金持ちでも極端にりんしょくな主人に仕える奴隷は悲惨ですので」

 文字どおり足下をみられた結果、ウィルは赤毛の奴隷のお眼鏡にかなったということなのだろう。

「へえ。なるほど。トリスもそばにいてくれたしね」

 うやうやしく仕えてくれる長身の女性の存在が自分を引き立てていることくらい、ウィルにだって分かる。

「恐縮にございます」

 トリスはスカートを軽くまみ上げ、膝を曲げてカーテシーのおをした。こうしたしょの一つ一つが見栄えがするのである。

「マルク家と知れば、逃した魚の大きさにさらに落胆したことでしょう。爵位持ちの貴族である上、伯爵家とかくが高く、しかもマルク家は使用人の扱いが丁寧なことで有名ですから」

 トリスの言うとおり、どうせ仕えるなら中流階級の主人よりも貴族の主人のほうが望まれるだろう。
 成り上がった人間ほど主従の区別をはっきりさせたいという心理が働くのか、奴隷の扱いも乱暴になりがちだと言われている。

「そして何よりも、ウィル坊ちゃまはお若いですが容姿も整っていて、人から好印象をもたれるてんぴんがございます。お素直な性格が外見ににじみ出ているのだと、わたしは思っておりますが」

 急に褒められてウィルは、「え? そ、そうかな」と無邪気に照れた。

「あの立て札にしても……」

 トリスは看板に視線を戻す。

「『性格従順』と書かれているのは殴られ慣れているということです」

 話が一気に生臭くなって思わず、うっと息をまらせた。

殿とのがたによっては女を殴ることに性的な快楽をいだします。十万ドラクマと、あの程度の容姿にしてはやや高値がついているのは、そういう適性のある女だからでしょう。もしウィル坊ちゃまに女を痛めつけるごせいへきがおありならば、迷わずさきほどの女をおすすめしていました。人には相性というものがございますから」

 ウィルは、ようやく女の表情がうれいを帯びていた意味を理解した。

「性格が素直で、特殊な性的こうもなく、お顔も綺麗。そんな若い貴族に身をゆだねられるのであれば――そのような夢を見てしまったのではないでしょうか」

 ウィルは同情する気持ちになりかけたが、「いえ」とトリスは首を振った。

「女のかげとはじょいんのようなものです。女の人生の分け目に押し入って、肉のひだを味わいくすおつもりがないのでしたら、通り過ぎた女のことなどお忘れください」

 トリスは情け容赦なくくぎを刺した。
 ウィルは、奴隷市場に来るように勧められた理由が分かってきた気がする。これは主人教育の一環である。

(人を買うって重いなぁ……)

 この黒髪の女中長は、それを理解した上で買えと言っているのだ。

「今回のご予算ですが――」

 トリスは、ようやくウィルの当初の質問に答えるべく口を開いた。

「三十五万ドラクマの予算をいただきました」
「え、三十五万! う、うそ!?」

 破格の予算と言っていい。さきほどの女を三人買ってもお釣りがくる。かなり無理をして捻出したお金ではないだろうか。

「それって上級使用人を買うためのお金なのではないの? ぼくの従者ヴァレットを務められるような」

 ウィルは心配になってきた。
 普通に考えて、女を買いたいから大金を寄越せといっても、もらえるはずがない。

「はい。そのとおりです。お父上には、ウィル坊ちゃまの助けになれそうな知識奴隷を買いたいとお伝えしてあります」
(やっぱり……)

 マルク領の屋敷の男性使用人の数が極端に少ないせいもあってか、ウィルには個人秘書のような役割を果たす従者がいない。
 今回のように要求すれば予算は出してもらえるだろうが、有能であることと忠実であることは、なかなか両立しがたいようで人選はとても難しい。あえて奴隷から買い入れるのは、奴隷に主人を選ぶ自由がないからである。

「狙い目は、屋敷の仕事を任せられるくらい有能で、美人で処女の上級家庭教師チューターです」
(む、無茶苦茶言うなあ……)

 明らかに男性使用人を前提とする枠に女性をあてがっている。その上、さりげなく処女まで条件に付け加えているのだ。
 この女中長は、ときどき強引な行動に出ることがある。

「大丈夫……?」

 かなり危ない橋を渡っている気がする。
 だが女中長は、

「長年かけてつちかった信用がございますから」

 そうおおを切って見せた。

(うーん。まあ、トリスなら上手うまくやるか……)

 トリスは政治的な手腕にもけ、人の心を操縦するのが上手い。
 ウィルが「ばあや」と呼んでいた高齢の女中長の体調が悪いと決めつけ、強引に退職に追い込んだときもそうだった。
 高度な専門知識をもったトリスが沈痛な表情を浮かべて看護しようとするものだから、前任者は段々と弱気になって本当に体調を崩してしまう。薬を調合するなど上手く取り入って、首尾よく後任に自分を推薦することを認めさせたのだ。
 幼いウィルが「その薬はなあに?」とくと、家庭教師だったトリスはくちもとに微笑を浮かべ、「ただの栄養剤ですよ。もうお歳ですから」そのようなしれっとした答えが返ってきたのを覚えている。

「手分けして探しましょう。できるだけ数を当たる必要がありますので」

 腕まくりする勢いである。仕方なしにウィルは頷いた。
 そこで女の視線が空を向いた。つられてあごを上げると、頭上には王家の旗が風に揺られているのが見えた。

「日が暮れたら、ここで合流しませんか? このエリアならウィル坊ちゃまに危険はないと思いますし」

 いなはなかった。
 トリスが本格的に探すとなったら、ウィルが近くにいたところで邪魔にしかならないだろう。
 目の前の女性はウィルの好みを熟知しているし、最終的に決断するのは自分なのだから問題はない。そう判断した。
 こうして、ウィルは一人ぽつねんと取り残された。
 改めて周囲を見渡す。市場はこのエリアだけでもうんざりするくらいに広い。今日だけでは回りきれないだろう。
 近年、力を伸ばしはじめた中流階級の資産家が、こぞって奴隷を買いつけに来るのものだから、ここ数年で高級奴隷のエリアが何倍にも拡充されたとか。
 ウィルは、これから順繰りに天幕を回っていくことを想像して、溜息をついた。
 どうしても、さきほどの泣き出しそうな赤毛の奴隷女の表情が、思い浮かぶ。他人の人生を買うというのは重い。足も重たくなろう。

「有能で、美人で処女の上級家庭教師チューターね。正直、ちょっと無理なんじゃないかな。だってトリスをもう一人、奴隷市場から探してくるようなもんだよ」

 あのような女性が世の中に二人といる気がしない。

「ん? 処女という条件を外せばトリスでもいいのか。おっと!」

 ウィルは自分の口を両手でふさいで、あたりをきょろきょろと見回したが、長身の女中長の姿はどこにも見当たらなかった。


   ‡


 とりあえず近くを散策してみることにした。
 左手に白い布のようなものが長く続いているなと思ったら、それがひときわ大きな丸型の天幕ユルトきょくりつを帯びた壁であることに気がつきぎょうてんした。なかでサーカスでも開くつもりであろうか。
 なんとなく壁に耳を当ててみたが、物音は聞こえない。
 ウィルは、さきほどトリスに『味見しますか』と、尋ねられたことを思い出した。

(あれ? これってすごく恥ずかしい行為なのでは……)

 物音がするならば使用中ということになる。
 万が一、不審者として衛兵でも呼ばれようものなら、家の名誉にかかわりかねない。
 あわてて周囲をきょろきょろと見回すと、すこし離れた場所に別の天幕が見える。その入り口の辺りに一組の男女がテーブルを挟んで座っており、にこやかに談笑していることに気がついた。
 いかにもおとこといったよそおいの、身ぶり手ぶりのおおぎょうな赤毛の男の言葉に、林檎りんごのようなほおをした白いドレス姿の令嬢がいちいち頷いている。
 幸いなことに話をするのに夢中で、ウィルの不審な行動に気がついた様子はない。ほっと胸をで下ろした。

(ちょっとだけ焦ったかな。……ん?)

 最初は恋人どうしかと思って、そのまま横を通り過ぎようとしたが、いかにも口の上手そうなやさおとこと純朴そうな女の組み合わせが妙に気になって足を止めてしまった。
 男のほうは、首もとの白いスカーフの結び方一つとっても都会的に洗練されており、カップを口に運ぶ所作は、役者のように優雅である。

 女のほうは、顔のぞう自体はそこそこ可愛かわいらしいのだが、まるで童話のさしの中から飛び出して来たかのように、服装がどうしようもなくったい。
 ウィルが生まれる前に流行したクリノリン・スタイルのドレスで、お椀のように異様にぷっくりとふくらまされたスカートの中に、そこにあるはずの椅子がすっぽり隠れてしまっている。
 おそらくは中央の事情に疎い田舎の地主の娘が、流行遅れになったドレスを売りつけられたのであろう。

 男がなにかを囁きながら手を重ねると、女は顔をさらに赤らめ、ほとんどゆだたんばかりとなる。
 手持ちなこともあって、ウィルはつい二人のほうに足を向けた。
 そこで少年はふとげんな顔をして男の首元に視線を留める。
 優雅に巻かれた白いスカーフのすぐ下に、犬が付けるような黒革の首輪が見え、伯爵家の令息は首を傾げることになった。

(あれって……?)

 そんな疑問に答えるように、こちらに向けられている木の立て札の存在に気がついた。

『売値二十万ドラクマより。外国語に堪能。読み書き可。頭が良く交渉ごとが得意。容姿美麗。赤毛。二十六歳。健康……』

 ぜんとした。
 この男は、少しでも良い条件を得るべく、自分で自分を売り込んでいるのだ。
 高級知識奴隷になると待遇が違うというのは聞いていたが、まさか、さも上流社会の一員のような顔までしているとは思わなかった。
 しばらく物陰から二人が会話している様子を眺めていたが、段々と話の雲行きが怪しくなっていったようで、女はハンカチでもとを押さえ、席から立ち上がってしまった。
 走り去る途中で、女は一度ちらりと後ろを振り返ったが、赤毛の男のほうは特に気にする様子もなく、もう終わった話とばかりにヤスリで爪の手入れをはじめている。
 落ち着きはらった男の様子を見て、ウィルは興味半分、冷やかし半分で声をかけてみることにした。

「ねえ。さっきの子はなにが気に入らなかったの?」

 優男は一瞬いぶかしげな視線をこちらに向けた後、ウィルの胸もとに視線を留めた。

「これはこれはマルク家のウィリアムさま。ようこそお越しいただきました」

 もちろん男とは初対面である。思わず舌を巻いた。
 なにもウィルの顔が売れているわけではない。ウィルの上着には双頭の馬と称される、二首を持つ馬の紋章がしゅうされていた。
 由緒ある貴族家だけあって、マルクにはいくつかの家紋があるのだが、伯爵に好まれていないこの紋章は、公的に使用されることがほとんどない。
 この男はそれをざとく見つけ、マルク家と判断した上で、初対面のウィルの名前を言い当てて見せた。

「おや、違いましたかな? だとしたら、とんだ失礼を」
「いや合ってるよ。正直びっくりした」

 ウィルが感嘆混じりの声をあげると、赤毛の男は「良かった」とわざとらしく胸を撫で下ろし、にっこりと完璧な作り笑顔を浮かべてきた。
 双頭の馬の紋章をマルク家のものだと知っていておかしくないのは、古くから付き合いのある年配の貴族か、戦場で敵味方の旗を識別する紋章官くらいだろう。
 ウィルの名前まで言い当てたということは、貴族家の紋章だけでなく家系図があらかた頭に入っているに違いない。

「ギュンガスと申します。わたくしをお買い求めで?」

 あまりに鮮やかな売り込みに、ウィルは苦笑をらす。

「いや、残念ながら今回探している条件には合わないんだ」

 そう率直に答えると、

「なるほど。条件ですか」

 ギュンガスはウィルの真意を探るように慎重にあいづちを打ってきた。

「ねえ、さっきの女の子がどうしてフラれたのか気になって、つい声をかけちゃったんだけど、良かったら教えてくれない?」

 答えを催促すると、男は目を細め、

「そうですね……」

 少し考えるための間をけた。
 ウィルのつま先までたっぷり観察した後、

「あの方は田舎の地主の三女に過ぎません」

 そうぬけぬけと言い放ったのだ。
 ウィルはさきほどの女性が気の毒になり、ほんの少し眉を顰めた。
 すると、赤毛の優男はわずかな表情の変化まで敏感に察知しているようで、

「おっと、お優しいお方でしたか。奴隷のぶんざいで言いすぎました。ですが、ウィリアムさまがお買い求めになる奴隷に条件があるのと同様に、奴隷の側もできるだけ良い主人に仕えたいものでして」

 そう弁解した。
 言っていることに一応の筋は通っている。ウィルは頷いた。交渉ごとが得意と書かれているとおり、相手の心のさとい。

「さらに付け加えると、明らかにむすめでした。あれ以上相手にしていると、大変なことになりかねません」
「大変なこと?」

 ウィルがそう問いかけると、「あちらですよ」とギュンガスは、くいっと右手の親指を肩の後ろにらし、背後に見える天幕の入り口を指し示した。
 奥にはベッドが見える。
 そこでウィルはようやく、男が女を買うように、女も男を買うのだと思い至った。

「男を買いあさることに慣れた金持ちのマダムならともかく、世間知らずの処女を散らすのはトラブルの元にしかなりません。だれも望まないのに駆け落ちをするとか言い出したりしてね。もうヤバいヤバい」

 その口調には明らかに火遊びを楽しむ色合いが含まれていた。

「それならどうして口説いていたの?」

 ウィルは素朴な疑問を発した。
 ギュンガスのほうから勘違いさせるよう仕向けているとしか見えなかったからだ。
 すると、赤毛の男は困ったように頭をく。

「せっかく純朴そうな女性とお知り合いになれたので、少しばかりえいを養わせてもらっていたのですよ」
「英気?」

 ウィルは半目で男のほうを見つめた。

「いえね。わたしは今日マダム二人のお相手を勤めまして。それはそれはお二人ともふくよかな肢体をもつ奥方さまで――それこそ北海のトドのような」

 そこまで言って、ギュンガスは斜め下に目を泳がせる。それから身震いして、うぷっと喉を詰まらせた。
 男の視線の先には大きな布袋が二つ重ねられており、袋の口から、使用済みと思わしきシーツの端がはみ出していた。

「うわ……。断れなかったの?」

 ウィルは気の毒そうに訊ねた。ウィルにとっても人ごとではなかったからだ。
 貴族の婚姻は家の事情によるところがほとんどと言ってもよい。しろぶたのようなふんまみれの令嬢と政略結婚させられる可能性もゼロではない。

「断るなんてとんでもないです。金も権力も持っているご婦人ですよ。わたしは金も権力も大好きですから」

 ギュンガスはとても良い笑顔を浮かべ、すがすがしく言い切った。どうやら筋金入りらしい。

「気持ちの上では何人でもお相手させていただきたいところですが――」
「ですが?」
「二人目を相手にしているところで、わたしは意識を失いまして……」

 がっくりと男はうつむきながら顎を落とすと、しおれた草木のようにげっそりと頰をこけさせた。
 どんなに金や権力が大好きでも、身体のほうがたなかったようだ。

「――とにかく、最初からお相手する気もなかった令嬢には、わたしの売値は百万ドラクマまで行くだろうと言ってお引き取り願いました」
「え! ひゃ、百万ドラクマ!?」

 ウィルはその数字に驚いた。
 たった一人の奴隷につけるにしては法外な値段である。
 マルク伯爵家ですら三十五万ドラクマなのだから、弱小の地主ならばとても手が出せないだろう。
 ギュンガスはくっくっと人の悪い笑みを浮かべた。

「売る気がないときはこうやって適当にあしらいます。相場は二十五万以上、四十万未満ってところですね」

 ギュンガスはそう言って、手元のカップから茶をすする。
 奴隷もこうやってできる範囲で主人のえり好みをするわけか。
 だが、地に伏して一方的に主人に鞭打たれている奴隷を見るよりは好ましいと思った。

「座りませんか? マダムからのいただきき物で悪くない茶葉ですよ。お口に合うと良いのですが」

 ギュンガスがポットのふたを開けると、落ち着いたこうが周囲に漂った。

(あ、いい香り……)

 悪くないどころか、女中長が厳重に管理するような品質の茶葉である。
 まったく男を買う気のないウィルは、首を振って遠慮するが、なおも引き留められた。

「わたしはほかの奴隷の管理も任されてますので、気に入った奴隷がいれば、相場よりもお安くおゆずりすることができます」
「へぇ」

 奴隷が同じ奴隷を売っているというのも、なんだか不条理な話に思えるのだが、それだけこの男が有能なのだろう。

「主人の仕事を手伝いはじめてもう五年になりますね。奴隷市場については、それなりに何でも分かっているつもりです。お時間があるなら、ぜひ」

 たしかに、すぐに奴隷を品定めする気にもなれないでいたところだ。
 結局ウィルは椅子を引き、腰を掛けた。
 優雅な装飾によって彩られたカップを口に運ぶと、心地よい香りと熱が体内に取り込まれ、身体がほっとかんした。
 慣れない場所に来て、思った以上に緊張していたことを自覚する。

「お探しの奴隷の条件とは?」
「えっと、ぼくが欲しいのは上級家庭教師チューターかな? 美人の」

 それを聞いてギュンガスは片眉を上げる。

「美人? 大事なのは能力ですか? それとも容姿ですか?」

 すかさず切り込まれたが、ウィルはもう開き直ることにした。
 自分の欲望を晒さずして欲しいものが手に入るはずがない。

「容姿のほう。上級家庭教師であることは、父さん――マルク伯爵に説明するための建前かな。ついでに言うと処女であったほうがうれしい」

 すると、この赤毛の男は面白そうに口許をひん曲げた。

「もし美人ぞろいで有名なマルク家の女中よりもはるか上をご期待されているなら、少々厳しいものがありますな」
「そうなんだ。やっぱり」

 屋敷の女中には明らかに器量の良い女がり抜かれている。三十を超えた女中すら容色を失っておらず、色香に惑ってしまうことがあるくらいだ。

「して、ご予算は?」

 ウィルはひと呼吸おいた。
 これは相談であると同時に交渉なのだ。すべてを明かす必要はないだろう。

「もしギュンガスが女だったら考えたくらいの金額……かな?」

 それを聞いた赤毛の優男は、

「そいつァ残念。うーん、実に残念。あとは美人で処女という条件がそろえばよいわけですね?」

 何度も何度も首をひねっていたが、やがて諦めたとばかりに両手を広げ、盛大な溜息をつく。
 それから、ギュンガスは何気なく口を開いた。

「そういえば、この近くのハコには正真正銘、最初から百万ドラクマの値のついた女奴隷が売りに出されていますよ」

 ハコとは、丸型の天幕のことであろう。いかにも奴隷商人の手先らしい慣れた口ぶりである。

「え、ホントに?」

 ギュンガスの自称百万ドラクマとは違って、本当に売り出しているらしい。
 一体どういう人間が何の目的で、百万ドラクマの奴隷を買うのだろうか。ウィルは興味をそそられた。

「奴隷市場には時折ああいうものがあります。目玉を作って人を集めて、他の商品まで一緒に売りさばこうというこんたんですな。良かったら見ていかれては?」
「へえ……あまり良く思ってない口ぶりだけど、試しにちょっと見ていこうかな」

 立ち上がったウィルを、ギュンガスはただじっと見つめていた。
 それに落ち着かない気分を感じつつ、

「うん、またね」

 そう言って、ウィルはきびすを返す。
 ウィルは言っておいて、「また」ということは次の機会があるのだろうかと首を捻った。

「せっかく足をとめていただけましたので、とっておきの情報をお教えします。出口を北に抜けると奴隷の仮置き場があります。がくうらのようなもので、入り口からすぐ左手がうちのスペースです。あのなかに一人、生意気なのですが力だけはやたらに強いのがおりましてね」
(へえ……)

 よほどわけありなのだろう。わざわざ教えてくれるということは、何らかの意図があるのかもしれない。

(力の強い奴隷か……)

 なんとなく頭に思い浮かんだのは、古代の剣闘士のようなきんこつりゅうりゅうの奴隷である。そのような奴隷を自分の従僕フットマンにするのも良いかもしれない。
 だが、さきほどの奴隷に鞭打つ若い奴隷主の醜悪な姿が思い出され、少年は軽く身震いする。

「おや? いかがされましたか?」
「ううん。なんでもない。ありがとう。考えてみる」
「いえいえ。こちらこそ。ぜひまた足をお運びください」

 おそらくこの赤毛の男とは二度と会うことはない。このときウィルはそう思っていた。



◇ 用語解説 ◇

屋敷の男性使用人の長として、屋敷の表側に関わること全般を取り仕切る上級使用人職。女性使用人の長として屋敷を裏側から支える女中長ハウスキーパーとはついになる関係にある。
マルク家の執事は王都のタウン別邸ハウスに住む伯爵と行動を共にしており、もう何年もウィルは執事の顔を見ていない。王都の別邸が執事の管轄下に置かれ、マルク領の屋敷が女中長トリスの管轄下に置かれるという棲み分けができてしまっている。

従者は主人のそばに仕え、助言をしたり身のまわりの世話をする上級使用人職。
執事バトラーの部下というよりは、主人直属の個人秘書のような存在と言える。執事不在の場合には従者が執事の代理を務めることもある。能力があるのは当然として主人と気心が通じていないと勤まらない。
マルク伯爵が王都のタウン別邸ハウスに移動する際に、めぼしい男性使用人を連れて行ってしまったため、マルク領の屋敷には一人の従者も残されていない。

従僕は給仕や荷運び、主人が馬車で移動する際の伴走などあらゆる雑事をこなす下級使用人職。女中に比べると給与水準が高く、雇う余裕のある家は限られている。屋敷の表側で働くため、背が高く見栄えが良いことも求められる。従僕として出世を重ねると、執事バトラーとして屋敷の男性使用人のまとめ役になるか、従者ヴァレットとして主人に近しく仕えるかで進路が分かれるようだ。
従者と同様、ウィルの父親の伯爵が王都のタウン別邸ハウスに連れて行ってしまったため、大貴族にも関わらずマルク領の屋敷には一人の従僕も残されていない。客間パーラー女中メイドが給仕を務めるなど従僕のいない穴を埋めているものの、力仕事を任せられる男手が慢性的に不足している。




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