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第二話「少年と奴隷市場」

 回れ右をして帰ろうとする少年の足を、かろうじて青い性欲が引き止めていた。
 広場には赤茶けたいしだたみが敷かれており、そこかしこに、とある商品がひしめいていた。
 ――人間である。
 男も女もいる。百や二百ではかない。
 それゆえ、ここは奴隷市場と呼ばれていた。

 この奴隷市場は、マルク領を西に丸一日ほど馬車を走らせた場所にある。伯爵家の少年は、女を買いにこの地までやって来た。

(まさかここまでひどいとは……)

 清潔な屋敷とはまるで別世界だ。
 広場によどんだ風が吹き抜ける。ウィルは眉をひそめ、まだ幼さの残る鼻先に手の甲を押しつけた。

 奴隷市場は、まず臭いが違う――
 もし「人」が社会の最下層に触れたとき、最初に不快に感じるのは臭いであろう。
 石畳の通りに沿うようにして引かれたみぞは、黒い汚水で澱んでおり、猛烈な臭気を放っていた。ところどころ茶色いものまで浮かんでいる。汚れを吸った水が側溝そっこうへと流れ込む。汚れのもとは、犬でも洗うかのようにバケツで水を浴びせられている奴隷だ。
 衛生状態が悪いのか、げえげえと吐いている少女がいる。腹を下している男もいる。消化器官を裏返したかのように人に関わる悪臭が何でも揃っていた。

 つぎに、見た目が違う――
 服装はもちろん、歳や背格好や肌の色もばらばら。
 粗末な服の前がはだけているくらい誰も気にしない。男であろうと女であろうと。どうせ服は商談のたびに脱がされる。
 南方で捕らわれたのか、炭のように黒い肌もあれば、北方の大冷害で人買いに売られたのか、雪のように白い肌もある。逞しい肉体を誇示する巨漢もいれば、鶏ガラのような身体を細い手足で隠そうと震える少女もいる。

 そして、音が違う――
 奴隷市場はとにかくせわしい。引きずる鎖の音はひっきりなしで、すすり泣く声はとめどなく続く。きぬく悲鳴や、飛び交う怒号が木霊する。それらの音韻おんいんを整えるのはむち振るう硬質の破裂音である。
 それと同時に、行き交う奴隷商人たちの威勢のよいかけ声や、上等な服を着た紳士ジェントルマン淑女レディたちの交わし合う陽気な笑い声が活き活きと青空に抜けていく。彼らは鎖に繋がれたものたちのことを同じ人間だと見なしていない。家具でも選びに来たかのように、「あれ」や「これ」を次々に指さしていく。
 ここは社会の上層と下層を繋ぐ接合点ジャンクションであった。


   ‡


「ウィル坊ちゃま」

 頭のすぐ後ろから落ち着いた女の声が聞こえてきて、少年はハッと我に返る。
 あわてて振り向くと、ぬっと間近に白い鼻筋が見え、熟れた赤い唇が少年の鼻先をちゅっと優しくかすめた。

「わわ。トリス。驚かさないでよっ!」

 ウィルはって抗議の声をあげる。

「あら……これは失礼をしました。何度お呼びしても、一向に気がついてくださるご様子がなかったもので。お鼻にくちべにが……」

 少年は手の甲で鼻をぬぐいながら、腰をかがめてきたトリスを見上げ、まぶしそうに目を細める。
 まだ高い日の光を背負った長身の女のシルエットがえる――家庭教師ガヴァネス時代を思わせるシンプルな黒のデザインで、いかにも才女といった雰囲気をただよわせている――久しぶりに見るトリスの行きのドレス姿であった。

(それにしても相変わらずおっきいなあ。ごくっ――)

 ドレスによって強調された腰のくびれが、胸のふくらみを一層大きく見せる。
 ふいにウィルは、はっと息をんだ。
 生地が薄いのか、間近だと黒い布地をうっすらと乳首の突起が押し上げているのが見えたからだ。

「ウィル坊ちゃま?」

 声をかけられてはじめて、じっと凝視していたことに気がつき、ウィルはあわてて視線を上げる。

「な、なにかな?」

 女のすっと通った涼しげな鼻筋がこちらに向けられていた。

「もし気に入った女が見つかったら教えてください。すぐに交渉しますので」

 トリスは淡々とした口調でそう告げて、少年の意識を今日の用事へと引き戻す。

「……わ、分かったよ」

 そう返事をしたものの、少年は目の前の現実に対する戸惑いから抜け出せないでいた。
 奴隷を手酷く扱う側に回るのは心が痛むが、さりとて奴隷市場がおかしいと言い出せる立場にない――辺境領に位置するマルク伯爵家は、小作人だけでなく多数の農奴のうどたちの手も借りて領地経営されているのだから。
 人が人として扱われていないこの奴隷市場で自分がどのように振る舞うべきか、ウィルは態度を決めかねていた。
 なんとはなしに少年が顔を上げたとき――

(あ……)

 斜め前方でウィルと同じくらいの年ごろの少女が、小太りの男の眼前に立ち、そうはくな表情を浮かべているのが見えた。
 少女は震える指先で、ぼろ布のような服の合わせ目を解いている。おそらく奴隷商人に肌を見せろと言われたのだろう。
 ウィルも歳相応の少年である。つい食い入るような視線を向けた。
 服の前がはだけられ、少女の淡い乳房があらわになる。いまにも倒れそうな少女の青い顔、首輪の跡、せて鶏がらのようになったあばら――
 なんだか居たたまれない気持ちになって、反射的に顔をそむける。
 すると、かすかなためいきが頭上からこぼれ落ちた気がする。
 頭の上を少し意識しつつ、らした視線の先の光景に――目を見張った。

(うわっ、あれはひどい……)

 同年代とおぼしき少年が散歩中のペットのように、若い奴隷主に引きずられているところであった。
 少年の両手は背中で拘束され、両の足も鎖で短く繫がれている。そのような状態で、首輪に繫がった鎖を無理に引っ張られるものだから、はとにわとりのように上体を前後に振って、つっかえつっかえ歩くことしかできない。
 奴隷主はゲラゲラと笑っている。見るからに嫌な予感がした。
 はしゃいだ奴隷主がさらに強く引っ張ると、少年は足をつまずき、ちゅうへと投げ出され、硬い石の路面に頭から落下する体勢となった。

(危ないっ!)

 思わずウィルは歯を食いしばる。
 頭のなかで、ごつんと重たい音が響くのを感じ、生理的な恐怖に肌があわつ。
 少年は――顔面で石畳を受け止めたまま、身体をくの字に折り曲げた姿勢で固まっていた。

 緊張しながら見守っていると、やがてぶるぶると全身を震わせて、どちら側にも倒れず、尺取り虫のように身体を起こそうと力を振りしぼりはじめた。少年にとって、倒れないというのは何らかの意地であったのかもしれない。
 首だけで振り向いた奴隷主は、犬が棒にでもぶつかったような視線を向けていた。
 なおも、言うことを聞かない犬にするかのように首輪をぐいぐいと引っ張るものだから、せめてもの抵抗もむなしく少年は、ばたっと横向きに倒れた。
 するとたちまち割れた額から吹き出した血が、どくどくと石畳の上に鮮やかな染みを作りはじめる。
 一瞬、倒れす少年と視線があった気がして、ぞくりとした。
 奴隷主に背を向けた少年は、まるで世の中すべてをうらむようなすさまじいぎょうそうで、はあはあと荒い呼吸をついていた。
 ようやく奴隷主がそばに寄ってきて、何やら不満そうな様子でブツブツとつぶやいているのが見えた。
 顔にニキビの残る男はまだ若かった。気の優しいウィルは、すぐに手当てにかかるよう祈る。
 だが、少年が血にれた唇をもごもごと動かすと、

(えっ!? ちょっと――)

 突然、若い奴隷主はげきこうし、少年が息も絶え絶えなのにもかまわず、半狂乱になって激しく鞭打ちはじめた。
 赤い血が周囲に細かく飛び散っていく。
 やがて少年の手足がびくびくとけいれんしはじめ、それがウィルの背筋を一気に寒からしめた。

(そ、それ以上は危ない。やめさせないと!)

 意を決して、ウィルがその少年を指さし言葉を発しかけた――ちょうどそのとき、トリスの声がウィルのを打った。

「マルク家でも奴隷がつけ上がってきたら、ここに連れてきます」
(……っ!?)

 トリスがいつものように背を屈め、そっとウィルにささやいたのであった。
 ウィルの頭のなかは真っ白となり、何と言って止めようとしていたか、もう思い出せなくなっていた。

(でも、でも!)

 それでもウィルはぎゅっと両手を握りしめる。
 青い正義感のようなものに駆られ、一歩踏み出し言葉を発しようとしたそのとき――

(んっ……あれ?)

 ウィルの横顔にトリスの豊かな胸のふくらみがやんわりと押しつけられた。
 やわらかい肉の感触に脳が麻痺した気がする。くらくらする良い匂いがした。
 まるで『向かう先はそちらではありません』とでも諭されるかのように、ウィルの視界がいまにも死に絶えそうな少年から、さきほど服を脱ぎかけていた少女のほうへと柔らかく押し切られる。

(あッ!)

 そこではさきほどの続きとばかりに、奴隷商人が全裸になった少女の淡い乳房を後ろから両手でみしだいているところであった。
 少女の下腹部の毛はくすんだ金髪と同じ色をしている。
 小太りの商人の鼻の下は伸びていたが、視線は少女の肉体をくまなくなぞり上げていた。
 ウィルはそれを見て、値踏みをしているのだと知った。
 栄養状態が悪いのか、とりガラのような少女の肋の上には、形の悪い左右非対称な乳房がぶら下がっている。
 それに若干の興奮は感じたものの、少女を自分のものにしたいという欲望はいてこなかった。

「いいや……」

 気がついたら、無情にもそうつぶやきながら首を振っていた。
 なにもこの少女である必要はない。
 りすぐられた屋敷の女中メイドたちに日常的に接していると目が肥えてきて、少女の女としての価値の低さに気がついてしまったのだ。
 自分でも冷たいと思ったが心から欲しいのでないのなら、この少女に対し自分が責任を負うことはできない。

 ふと見上げると、さも正しい判断をしたと言わんばかりに、女中長ハウスキーパーがうんうんとうなずいていた。
 淡褐色ヘーゼルの瞳を細めるトリスに、なんだか得体の知れない恐さを感じてしまう。
 だが、それについて深く考えるまえに――

「ああ! さっきの子は!」

 ウィルはいまさらのように思い出した――
 未熟な果実の放つほうこうにつられて、ひんの少年の危機をうっかりかんしてしまったのだ。
 ついさきほど地に倒れ伏した少年がいた場所を馬車が通りすぎようとしている。いままさに馬車にかれそうになっているのではないかとしたが、少年の姿はどこにも見当たらない。
 石畳に残るのは血の痕跡こんせきのみ。

 ちょうどそこに清掃係とおぼしき粗末な身なりの男がバケツを持って現れ、ばしゃっと勢いよく水をかぶせた。水の流れが敷石の間を網目状に縫い、ちょろちょろと側溝へと流れ込んでいく。
 血の染みがれいに洗い流され、あとにはなにも残らなくなっていた。

「奴隷市場はいちいちです。過ぎ去った奴隷のことなど、もうお忘れください」

 トリスの冷たく突き放す声がウィルの耳を通り抜けた。
 こうして哀れな少年と少女は、ウィルの人生から永遠に切り離されたのだ。
 石炭煙を含んだ風が、広い奴隷市場をぴゅうっと吹き抜けていった。


   ‡


 ウィルは、がらんどうになってしまったように口を開けてほうけていた。心のなかで悪い風が吹きすさんでいる。
 育ちの良い少年がはじめて下層社会のせいさんさに触れたのだから無理もない。

(……ぼくはどうすれば良かったのだろう)

 ウィルの疑問が出口のない思考の迷宮を彷徨さまよいはじめたそのとき、急に後ろから生ぬるい風が吹き込んできた。
 馬のいななきが聞こえる。

「どいたどいた!」

 続いて野太い怒声が響く。
 すぐそばから、がりがりと石畳を削る重そうな鎖の音が聞こえてきた。

「わ、わわ!」

 意識を内に向けていたウィルは、迫り来る馬のひづめと馬車の車輪を前に恐慌状態におちいる。

「おい! そこのガキ! 危ねえぞ!?」

 間一髪のところで、ウィルの首根っこがぐいっと後ろに引っ張られ、すぐに顔が柔らかいクッションで包まれる。
 ウィルはトリスの胸の谷間に顔をうずめていた。
 黒い布地から温もりが伝わってくる。どくんどくんという心臓の音が聞こえ、それが妙にウィルを安心させた。
 同時に、汗と香水が複雑に入り交じった、くらくらする匂いがウィルの興奮中枢を刺激する。
 やわにくすきから見上げると、トリスがウィルの背後をにらみつけているところであった。

「気をつけなさい」

 女中長の声はドスが利いている。ウィルの腹にまで響くようであった。

「え、えらいすんませんな……」

 たんにしょぼくれたしわがれ声が返ってきた。
 さすがはマルク家の女中長である。有無を言わさない迫力があった。
 背を向けるウィルからは見えないが中年の奴隷商人であろう。
 駆け出す足音とともに、

「てめえ、迷惑かけやがって!」

 再び威勢のいい怒鳴り声がするやいなや、悲鳴とともにウィルの視界の隅を小柄な奴隷が転がっていく。
 奴隷の歯は折れ、口はまみれである。
 うっと首をすくめていると、

「……ウィル坊ちゃま?」
「え?」

 柔らかい皮膚を通してトリスの声がじかに響いた。

「わたしの胸などあとにして、市場をまわりませんか」

 いまさらながら、トリスの大きな乳房をわしづかみにしていたことに気がついた。
 柔肉は両手の形に変形し、手の平からこぼれている。
 あわてて、つかんだ胸を離す。

「あ! ご、ごめんよ。トリス」
「ふふ。せっかくですから、もっと若い乳房をお選びください」

 トリスはさして気にした様子もなく、えんぜんほほみ、歩き出した。
 自分を轢きかけた馬車が遠ざかっていくのを耳で意識しながら、ウィルは自身の指を見下ろす。

(ト、トリスのおっぱい、揉んじゃったよ)

 柔肉を揉みしだいた感触が指先に残る。
 幼少のころ、あの乳房から母乳を飲み、あの乳房に包まれて眠った。ウィルの三大欲求の二つ、食欲と睡眠欲を満たしてくれたのである。
 いま、トリスの乳房からその二つの欲求を感じることはない。代わりに残りの一つが強烈に鎌首をもたげはじめていた。

 目のまえでは、形の良い大きな尻が、高い位置でスカートを揺らしている。
 ウィルは、少し腰を引いた姿勢でトリスのあとをついて歩く。大型犬の雌の尻を追いかける小型犬の雄のような気分であった。
 男女の性交というものがぼっした男性器を、あの張り出した尻のどこかにれるということは知識の上で知っている。
 だが、女のまたぐらがどのような構造になっているか、少年にはイメージするだけの経験が足りなかった。





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