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第四十二話「屋敷を守る女中たち」
乾いた銃声が窓を震わせる。
――といっても別段の危険はない。
屋敷の正門を出たところの坂道で、洗濯女中が実弾演習を行っていた。
階段を下りるウィルの左右にソフィアとマイヤが続く。
ウィルは階段の上から周囲を見回した。
最初のうちは、銃声にいちいち身体を震わせていた女中たちも、次第に慣れてきたようで、いまではそこまで気にする様子もないようだ。
ふと、掃除をする三人の女中の姿が目に止まった。
いずれも日焼けした顔の目鼻立ちが整っており、女中服の両脇からにょっきりと伸びる小麦色の腕には、健康的な色香を感じずにはいられない。
(雑役女中の子たち、よく見かけるようになったな)
窓を拭くもの、床に雑巾をかけるもの、手すりを拭くもの様々だ。
家政女中の抜けた穴を埋めるため、これまでは屋敷の外で働く機会の多かった雑役女中たちが室内で働いているのである。
雑役女中はオールワークスという名のとおり、専門色の強い他の女中職とは違って屋敷のなんでも屋であり、どんな職場にも配置される。ワインの醸造場でもあるマルク家においては葡萄の収穫を手伝うことまであるのだ。男手が極端に足りない屋敷が上手く回っているのも雑役女中がいればこそである。
他の女中職に比べると重労働で、配置転換が多く専門性も身につけにくい立場であるせいか、貧しい生まれの少女が多いように思う。
(たまには労ってあげないとなあ……)
ふと横を見ると、階段の手すりを拭いていたチュンファが、ちらちらと細い目でウィルのほうを窺ってきた。
チュンファは東洋系の雑役女中で、緩いカーブを描いた糸目が特徴的だ。
素の状態で微笑んでいるような感じが、なんとなく喉を鳴らす猫を連想させた。
背はウィルより少し低いくらいで、東洋系だけあってスレンダーな身体つきである。
手すりを拭くたびに、頭の後ろで結わえた黒髪の長い三つ編みを、お尻のあたりで尻尾のように揺らしている。
ウィルはその黒地のスカートに視線を落とした。
スカートの裾から、はみ出た白い布地で覆われた膝裏が妙に艶めかしくて吸い寄せられてしまう。
修道女ヘンリエッタの報告によると、どうも雑役女中たちは主人とのスキンシップが足りないことを不満に思っているようであった。
「チュンファ。もう少し銃声に我慢してね」
ウィルはそう言って、階段の途中で立ち止まり、
(ええと、こんなもんかな……?)
手すりの掃除に励んでいる女中の黒地のお尻の谷間をつるりとなぞりあげた。
すると、小ぶりのお尻がぷるぷると震えるとともに、
「きゃんっ! もう! ご主人さまあァ」
予定調和のように空々しい悲鳴と甘えた声が返ってきた。チュンファはぞくぞくと小さく足を踏みならしている。
どうやら、これで良かったらしい。
初めての女の尻に触るのは、どうしても緊張してしまう。
気安くやっているように見えて、実は結構面倒くさいのである。
階下から、じっとりとした視線が纏わり付いてきた。
二人の雑役女中がいかにも先を越されたとばかりに悔しそうに、ウィルの背後に視線を送っていた。
ばっと後ろを振り返ると、どうだとばかりに細い右拳を掲げていたチュンファがいた。
チュンファは、えへへと唇に愛想笑いを張りつけながら、そっと背中に右手を隠した。
ウィルは、見なかったことにしようと視線を進行方向に戻す。
すると、ルーシーは窓を拭きながらお尻を振りはじめ、床を掃除していたデイジーは、細いお尻をウィルのほうに突き出し、いかにも疲れたとばかりにトントンと腰を叩きはじめた。
(ここはなんの屋敷だよ!?)
内覧会では、女中を手籠めにしようとする乱暴な客に対し、女中は娼婦でないと大見得を切ったウィルであったが、これだと娼館のように思われても文句が言えない。
(それにしても……いつから自分は暇さえあれば女中の尻を撫でて回るような主人になってしまったのだろう?)
ウィルは自分の指先を見つめた。
女の尻を撫でる効用は様々ある。
女中の反応によって主人との距離感を把握できるし、息づかいなどから女中の体調を確認することもできる。
尻を撫でたことのない女中に頼みごとはしにくいが、撫でたことのある女中には、どこまで無理なく聞いてもらえるか、なんとなく匙加減が分かる。
女中との肉体的な接触は、いまや屋敷の支配の根幹になっているのであった。
「おまえらやり過ぎだ。オレが言うこっちゃないけど品がなさすぎてウィルがひいてるぜ? それに、いくらなんでもスカート上げすぎだろ?」
ウィルの右手を歩く赤毛の少女がそう言った。
言われてみて、ようやく違和感に気がついた。女中服の黒地のロングスカートが、腰のあたりで巻かれて短くなっているのだ。
マイヤの言葉に、三人の雑役女中は途端にばつの悪そうな顔をして、もそもそと巻いているスカートを元に戻しはじめた。
「まあ。スカートを上げられる女のほうが役に立つだろうけどな」
そうマイヤが少し言い過ぎたとばかりにフォローをした。
「だよね。だよね!」
窓を拭いていたルーシーが、収まりの悪い金髪を女中帽から垂らして頷き、
「上げられるときにスカートを上げない女はダメだ」
床を掃除してた短い赤毛のデイジーに至ってはそう断言した。こちらは年若く褐色のジュディスというか、不良娘のような雰囲気がある。
「そういうもの?」
女の心の機微は難しい。
「まあ。男には分かりにくいか。もしオレが街でスリか娼婦でもやってたら、こいつらを仲間に入れるか判断材料にするかな。まあオレはスカート上げねえけどな」
マイヤがそう答えた。
「そりゃあ、マイヤは可愛いからスカート上げなくたっていいわよっ」
黒髪のお下げのチュンファが口を尖らせた。
「わたしはマイヤみたいにお目々がぱっちりしてないもの。ソフィアさんなんて立ってるだけで周りと空気が違うし」
いじけた口調で、自身の細い糸目を左右に引っ張る仕草が少し可愛らしかった。
マイヤは困ったように苦笑いをし、ソフィアは、よく分からないという感じで首を傾げた。
「でも、アーニーには負けたくないのっ」
ぎゅっと拳を握るチュンファの言葉に、金髪のルーシーと赤髪のデイジーが頷いた。
(アーニー? なんの話?)
栗毛を短く縛った、あのちょっとやんちゃな感じの洗濯女中がどうかしたのだろうか。
ウィルは、マイヤのほうを窺った。
「こいつらアーニーに、『できる女は、朝も夜も休む間がないから辛いわー』なんて給与明細を見せびらかされたんだってさ」
マイヤが呆れるようにそう言うと、雑役女中たちが陽に焼けた顔でこくこくと頷いてきた。
ウィルは、もう苦笑いをするしかなかった。
そもそもアーニーを夜に呼び出した覚えはない。
これが、トリスにより設計された新給与体系の恐ろしさであった。
予算の厳しい折に引き下げられた給料は元のままである。当然、穴埋めしたいという気持ちが働くだろう。
新給与体系では、女中の努力によって給料のベースを積み上げることができるのだ。
ウィルに身を捧げることによって、一番多くの、給料の増額を勝ち得たのが洗濯女中のグループであった。
無理な頼みも聞いているため、特別手当が加算されて、給料が以前の何割増しにもなっている。
と言っても、給料のベース金額の増加は微々たるものであるが。
だが、女中にとっては、そのわずかのベースの差額が悔しくてたまらないようであった。
「金の問題だけでなく、こいつら生まれ育った村で一番の美人という看板引っさげて、この屋敷に来てるんだよ。アーニーが選ばれて自分が選ばれないのは納得いかないよな?」
マイヤの言葉に雑役女中たちが、再びこくこくと頷いた。かなり真剣な表情である。
(いまさらだけど、身体を差し出す後ろめたさみたいなのがないよね……)
ウィルは苦笑いした。
このあたりにも女中長の絶妙な匙加減が機能していた。
ベースアップはわずかであるため、娼婦のように身体を金で売っているという自覚に乏しい。
しかも処女証明書まで発行してもらえるのだから、世間体を気にする必要がなくなってしまっている。
「べ、べつにアーニーと競争するためだけに言ってるわけではないですよう」
そう主張したのは、窓を拭いていた雑役女中のルーシーである。女中帽の下から癖の強い金髪をはみ出させ、そばかす混じりの顔で必死にそう言い募る。
「わ、わたしウィル坊ちゃんにならいつでも……初めては素敵な人のほうがいいに決まっていますもの」
そう言って、ルーシーはぎゅっと両拳を握り、脚を少し内股にして身体を震わせた。
そして上目遣いにウィルの首筋や胸板、そして長い指先に、ちらちらと視線を送ってくる。
「わたしもだ」
デイジーのほうは、ほっそりした身体で腕組みをして、簡潔にそれだけを言う。そしてちらっとウィルのほうを見やり、少し赤く頰を染めた。
この少女だけは、もとから褐色の肌なのか、腕に日焼けあとが見当たらない。
ウィルは、褐色の肌でスレンダーな女中はデイジーだけだなと、女中のリストを思い浮かべた。
横のチュンファは、東洋系だけあって地肌が白い。腕の途中から見える日焼けの段差が三人のなかで一番くっきりとしている。
「わ、わたしたち、みんな経験ないですけど、な、なんなら、まとめてでも良いんですよ?」
そうチュンファが細い肩を竦めて、勇気を振り絞るように自身の両肘をさすった。
雑役女中たちは直情的であった。なんとなく屋外で野合に至るような原始的な猥雑さを感じる。
それは雑役女中の出身階層にも関係しているのかもしれない。何人か農奴の出身者も混ざっている。
マイヤがウィルの耳元に口をよせ、
「こいつらにとったら、おまえは憧れの若様だからな。ほんの一時でも肌を合わせたいような高嶺の花なんだよ」
そう呟いた。
(だけど、ぼくに抱かれる意味を本当に分かっているのかな……?)
雑役女中たちは、陽に焼けた両手をスカートのまえで重ね、ドキドキとした表情でウィルのほうを窺っている。
女中は、身体を捧げたあとに気がつくだろう。
十分な見返りを得るには、身も心も主人に捧げ尽くさねばならないと。それも長期にわたって。
返しのついた釣り針のように、一度心に突き刺さると抜くことは容易ではない。
そのとき、パーン、パーンと銃声が連続して鳴り響いた。
洗濯女中たちは本格的に射撃しはじめたようである。
いまやっているのは、屋敷の正門に通じる一本道を敵が駆け上って来ることを想定した射撃訓練である。
わずか数分の間に、殻の固い豆でも煎ったように、何十発という銃声が次々にはじけた。
その圧力に耐えかねたように雑役女中たちは両耳に手を当てて、膝を折る。
急に銃声が止んで、沈黙が流れる。
「もう大丈夫だよ。仕事にお戻り」
雑役女中はウィルの言葉に頷き、各々の仕事に戻りはじめる。
それで雑役女中の件は、とりあえず棚上げとなった。
ウィルは玄関の扉をぎいっと開けた。
青い空に、薄く硝煙が立ち籠めていた。
「そろそろ訓練も終わったみたいだね。ようやく準備が整った。明日の朝、出発するからね」
ウィルの言葉に、ソフィアは真剣な表情で頷いた。
ソフィアはくんくんと硝煙の臭いを嗅ぎ、顔を顰め、俯く。
「ウィル――」
そう切り出した声のトーンはびっくりするくらい低かった。
「いま、この屋敷には武力が必要とされている。それなのに、わたしは役に立っていない」
ソフィアはまるで迷子の子どものようにぼそぼそと呟いた。
「いや、そんなことはないよ。この間、屋敷の中で襲われたときもソフィアに助けてもらったし」
ウィルは、ぽりぽりと頭を搔きながらそう答えた。
「わたしは護衛として当然の仕事を果たしただけだ」
「そうだっけかな」
銀髪の少女は、なかなか顔を上げようとしない。
「銀狼族の神子の誇りをかけてウィルと取引をしたというのに、これでは取引の釣り合いが取れない」
ソフィアの声音が痛ましく揺れている。
(うーん、どうしたものか……ソフィアは誇り高すぎるんだよね)
ウィルは、ソフィアが奴隷の丘のうえで毅然と空を見上げていたことを懐かしく思い出した。
だからこそ、ソフィアのことが好きになったのだが、いまはそう言われても困る。
ソフィアの戦士としての誇りを満たそうにも、マルク家では騎馬兵一つすぐには揃えることができない。
「なあ、ソフィア。そんな堅えこと考えずにウィルに頼れよ。妹が見つかったあとも、ずっとこの屋敷で暮らせばいいじゃねえか」
少しイラだったようにマイヤが言った。
「そんなことはできない!」
ソフィアは突然激昂したように顔を上げ、そう反発した。
この少女は以前、
『草原こそがわたしの帰るべき故郷なのだ。だから、わたしは妹を取り戻した後は草原に帰るつもりでいる』
そう言っていた。
マイヤのほうも、ムキになってソフィアに食い下がる。
「ソフィアはこの屋敷の暮らしのなにが不満なんだ? メシは美味いし、清潔なベッドに眠れる。仕事もそこまでキツいわけじゃない。屋敷の連中も気の良い奴らばかりだ。まあ、中には変わり者もいるけどよう」
「わたしの帰る場所は草原なんだっ!」
銀髪の少女は頑なにそう反発した。
「だって、ソフィア。おまえはウィルとの約束を守ったら、無力な小娘に成り下がるんだろうが。おまえの妹もそうなんだろう?」
「そ、それは……」
「草原は力のない人間には決して優しくない場所だってことくらい、オレにも分かるぞ。オレは孤児院でどうやって自分が生きていくか、死ぬほど悩んだからな。姉妹二人で草原に出て、どうやって生きていくつもりなんだ! お屋敷以外におまえの帰れる場所はもうないんだよ。そのくらい分かれよ!」
ついにマイヤはそう言ったのだ。
(う、わ……言っちゃった……)
ウィルは、それだけは言わないでおこうと黙っていたのである。
だが正直なところ、ずっと言いたいのを我慢していたので胸がすっとしたのは事実であった。
ソフィアはというと、ぶるぶると身体を震わせながら琥珀色の瞳に涙を溜めていた。
そして涙を零しながら、赤毛の少女のほうを睨みつけると、
「うるさい! うるさい! いくらマイヤでも言っていいことと悪いことがあるぞ!」
ダダをこねるようにそう反発したのだ。
ウィルはソフィアの肩の上にそっと手を載せる。
「うん。今日は天気良いし、とりあえず外に行こうよ」
ウィルの言葉に、銀髪の少女は無言で下唇を噛み、早足で一人外へと歩き出した。おそらくは草原へと。
「わりい。ついにかっとなって言い過ぎちまった」
マイヤが心底申し訳なさそうに肩を落としてそう言った。
「ぼくこそ。本来ならば、ぼくが言わないといけなかったことを代わりにマイヤに言わせてしまった」
ウィルはそう言って、ため息をついた。
屋外に出てきた目的は二つ。
一つ目は、銃器の扱いに慣れてきた洗濯女中を労うことである。
「ジュディス。順調そうだね」
「ご主人さま。案外どうにかなるもんだね。命令されたとおり、どんどんと撃てるようになったよ」
赤毛の女は大きな胸を撫で下ろすようにして笑った。黒い布地を押し上げる乳房が揺れる。
「君たちならできると思っていたよ」
ウィルは意識して、さも当然のようにそう言うと、信頼の視線が返ってきた。
銃器の利点は、非力な女でも短期間の訓練でそれなりの戦力に仕立て上げられることだ。弓矢だとこうはいかない。
「信じてくれて嬉しいっす!」
短い黒髪のレミアが元気いっぱいにそう破顔した。
ジュディスは少し呆れるような顔で、自分の手にした銃を見ながら頷いている。
ウィルは、自分に反抗的な態度をとったことのある洗濯女中に、その気になればすぐに屋敷を征圧できる武器を手渡しているのであった。
「ご主人さまは、器が大きゅうございますから」
栗毛のブリタニーがそう言い、
「そのとおりですわ」とイグチナが同意する。
(こんなに安心して任せられるのは抱き従えた女だからだよね……)
ウィルはつくづくそう思う。
目の前にいるのは、屈服させ、利害関係で縛った女たちである。
率直な話として、屋敷全体の女たちを愛情だけでまとめあげる自信はない。
愛情というものは、おそろしく扱いが難しい。
それに比べれば欲得のほうがよほど計算できる。
「危険手当をつけよう。洗濯屋の開業資金として、まとめてプールしておくよ」
ウィルがそう言うと、「わああ!」という歓声が上がった。
敢えてプールするのは、手当をすぐに渡してしまうと、他の女中たちと差がつきすぎてしまうという事情もある。
先日ウィルは、レベッカを洗濯女中に引き合わせた。
元子爵家当主と洗濯女中、本来であれば接点はないはずなのに、店を開業したいという女の野望は、レベッカの心を大いに捉えたようだった。
レベッカは、王都の洗濯屋がどれくらい儲かっているのか、ロムナの町にどれくらいの高品質の需要があるのか、淡々と厳しい見通しを突きつけた。
だが、洗濯女中の表情は暗くならなかった。夢の実現のための現実的な距離感が示されたからであろう。
「なんだか着実に前進している感じがするよ!」
アーニーがそう叫んだ。
「アーニー、だからと言ってあんまり他の女中を煽らないようにね」
「な、なんのことかなっ……」
ウィルの言葉に、アーニーは、ばつが悪そうに目を泳がせる。
「だから言ったのに……」
褐色の肌のシャーミアが呆れたように白銀の髪を掻きあげた。
シャーミアは武器を持つと、曲刀を手にした砂漠の踊り子のようにどことなく艶めかしい雰囲気が漂う。
「ぼくが屋敷に戻ってきたら人を増やすつもりだ。新入りが来たら、誰に逆らったらいけないのか良く言い聞かせるんだよ」
ウィルがそう言った。
それは、ウィルがいつでも抱ける女として内部教育しろと言っているのに等しい。
だが、洗濯女中は当然のように一斉に頷いた。
(不思議だなあ……)
ウィルがそう思うのは、目の前の女たちと固い絆のようなものが感じられるからである。
古参の兵士が将軍に向けてくる思慕に近い感情なのかもしれない。
個人によってウィルに向けてくる愛情のバラツキこそあるものの、ウィルは目の前の洗濯女中たちを信じることができた。
そして繰り返される性の快楽が、目の前の女たちとの関係をより一層緊密なものにしてくれるであろう。
‡
「ご主人さま」
屋敷の外に続く坂道を降りるまえに、トリスが呼び止めてきた。
「お戻りになられたら雑役女中にお手つきください。いま屋敷にいる雑役女中は、ロムナの住人や農奴たちに顔の広い者たちばかりです。お屋敷と外とを繋ぐパイプを強化されたほうが良いでしょう」
この女中長は本当に徹底している。ウィルは苦笑を浮かべた。
いま屋敷にいる三三人の女のなかでウィルのお手つきになったのは十五人。
明らかに対象外である赤子のオクタヴィア、年若いルノア・ニーナを除くと残り十五人である。
無理に貞操を主人に捧げなくてもと考える、調理女中のジューチカのような女中が少数派となってしまった。
もうそろそろ打ち止めでいいかなと思っているのだが、この女中長はそれを認めるつもりがなさそうだ。
トリスはこれまでに、乳母としてウィルに母乳を与え、家庭教師としてウィルに教育を施し、女中長として屋敷の裏側を統括してきた。
これから屋敷の使用人の数を増やすにしろ、適齢期の女たち全員にお手つきをしたとき、トリスの目的は達せられるはずだ。
そこに立っている、ただそれだけなのにどこか揺るぎないように見える。
(その先、トリスはどうするつもりだろうな……)
ウィルは空を見上げた。
上空は風が強いようで、上に昇った煙が見る間に遠くに棚引いていく。
女中長の背後に流れる雲は、速い。
白い陶器のような顔が、緩やかな風に晒され、頰の横に垂らされた黒い横髪が揺れている。
屋敷の主人としての頭角を現わしてきたとはいえ、ウィルにとって、いまも昔も屋敷を象徴しているのは、目の前の女中長である。
その存在感は、屋敷の主人としての自覚を持った今のほうが大きいかもしれない。
「ところでご主人さま、ギュンガスの件ですが……」
女中長は、長い睫毛を伏せて囁いた。
「あ、うん。あのギュンガスね」
「あの男は、部下をつけてくれるよう求めておりますが、わたしは少し憂慮しております」
ウィルは頷いた。トリスの言わんとすることは分かる。
先にレノスの街に旅立った従者はだいぶん増長してきた気がする。
「トリスはどう思う?」
「あの男は、もし屋敷が乗っ取れるものならば乗っ取るタイプでしょう」
トリスの言葉に、ウィルは悩ましげな苦笑を浮かべた。
「父さんに連絡を取ったりしていないよね?」
二重帳簿をつけるなど、この屋敷には王都の伯爵に対し後ろ暗い点がいくつもある。
「一応、あの男が外部に出す手紙は検閲しておりますが、王都にいらっしゃるお父上に取り入っている様子は見受けられません。いかがいたしましょう?」
「解雇するのも選択肢だね。解雇というか、奴隷市場で買ってきたから、どこかに売り払うことになるわけか……」
「チルガハン家なら買ってくれるでしょう。いま侯爵家は屋敷を統括できる人材を求めているようです」
(チルガハン家ね……また関係の微妙なところを)
マルク家の使用人となったアラベスカが夫人をやっていた侯爵家である。
チルガハン家は、子飼いの貴族家の次男、三男坊などが屋敷の上級使用人として働いており、気位の高いのも混ざっていると聞く。
上流貴族のあしらいに慣れていそうなギュンガスが行けば、さぞかし重宝がられることだろう。
「ですが、屋敷の内情を知る男に口止めをしないまま、次の主人のところまで行かせてやるわけにはまいりません」
たしかに、それはトリスの言うとおりであった。
伯爵家の内情を知る男をおいそれと放り出すわけにはいかない。
奴隷という立場で買ってきたからこそ、込み入った屋敷の内情を知る立場にまで引き上げた。
だが、ギュンガスの態度には殊勝さが見当たらない。当初は有能さの証しのようにも解釈したが、どうにもアテが外れた感がある。
いまのところ、ギュンガスは将来の執事コースなのであるが、このまま将来ギュンガスを女中長と並ぶ屋敷の男性使用人の筆頭に引き上げたいとは思わない。
「うん。考えておくよ」
ギュンガスの処遇は、レノスの街での働き次第だろう。
ウィルはそのように考えていた。
◇ 屋敷の女性一覧 ◇
女中長 1人 (トリス◎)
蒸留室女中 2人 (リサ◎・サリ◎)
洗濯女中 6人 (第一:ジュディス◎)
(第二:イグチナ◎・ブリタニー◎・シャーミア◎)
(第三:アーニー◎・レミア◎)
料理人 1人 (リッタ◎)
調理女中 3人 (第一:ジューチカ)
(第二:エカチェリーナ・フレデリカ)
皿洗い女中 2人 (ルノア・ニーナ)
乳母 1人 (アラベスカ◎)
酪農女中 3人 (ケーネ他)
客間女中 1人 (フローラ◎)
家政女中 2人
雑役女中 8人 (ルーシー・チュンファ・デイジー他)
側付き女中 3人 (ソフィア△・マイヤ◎・レベッカ◎)
修道女 1人 (ヘンリエッタ◎)
その他 1人 (オクタヴィア)
計35人
お手つき 15人 (済み◎、途中△は含めない)
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書いている著者自身がWeb版/同人Kindle版/商業版の各バージョンの違いで混乱しているものでして、もし読んで気になる点や誤字脱字などございましたらご指摘願います。
コメントのお礼に特典小説もご用意しております。
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