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第三十話「薄氷を踏む女」

 北のムーア領は山合いにあるためか、夏でも気候が涼しい。
 馬車に揺られ、涼風を顔に受けながら、ウィルは寄宿学校時代のことを思い出していた。
 頭に浮かんだのはある冬の出来事であった――

 新雪が積もったので、たしかカヤックが雪合戦をしようと言い出したのである。
 室内は暖炉が点っているので黒の上下の制服でも十分に温かかったが、いざ外に出てみるとコートを羽織っても寒い。
 ごく自然の成り行きのように、ウィルとレベッカは敵同士へと分かれた。
 成績一番のウィルが白組の大将で二番のレベッカが紅組の大将に選ばれた。

 雪合戦のルールは単純で、『雪玉を顔にぶつけられた者はゲーム終了までそこから動いてはならない』それだけである。
 ウィルのもとには多数の生徒が集まったが、レベッカに味方する生徒は少なかった。
 これはウィルの人徳というよりも、寄宿学校の大半は男子生徒であり、彼らは普段やり込められているレベッカにやり返すほうを選んだのだ。

 あまりの寒さにぶるぶると震えながらウィルは雪合戦の中止を申し入れたが、レベッカは圧倒的に不利な状況にも関わらず続行を主張した。
 勝負は予想したとおり最初からワンサイドゲームで、あっというまにレベッカ率いる紅組は押し込まれた。
 ウィルが命令せずとも、日頃の鬱憤を晴らすかのように、白組の生徒たちは背中を向けて逃げる紅組の生徒に雪玉を浴びせる。
 最後に残ったのはレベッカであった。少女の背後は見上げる崖である。レベッカは取り囲まれた。
 みんな無愛想なレベッカの顔に雪をぶつけてやりたいと思っているようで、どこか不穏な空気をかもし出しながらじりじりと輪が狭まっていった。

 ウィルは咄嗟に危ないと感じ、輪の中に飛び込み、レベッカを背に庇うようにして、雪玉に石入れたら駄目だと注意をした。
 輪のだれかがちっと舌を鳴らす音が聞こえたかと思いきや、それはカヤックで、雪玉を投げ捨てた。何人かがそれに倣う。
 そのとき突然、後ろのレベッカが「まだ、ここに入ってきちゃダメなのにィ!」と悲鳴を上げたのだ。
 振り返ったときには、足元からミシッと大きな音とともに傾いた。
 レベッカの金髪が一瞬宙に浮く。地面が割れていた。
 罠にかけられた全員が、池のうえに張られた薄氷の上を歩いていたことに初めて気がついた。
 レベッカによってこの場所に誘導されていたのである。
 自らを囮にして追ってきた者たちを一網打尽にする、それがレベッカのねらっていた作戦であった。
 多くの生徒が冬の池のなかに落ち、雪合戦どころではなくなった。


   ‡


 ウィルより少し背の高いドレス姿の女性が、屋敷の入り口で出迎えてくれた。

「ウィリアム様、ようこそ、ムーアにおいでくださいました」

 かつての同級生レベッカは純白のドレスに身を包み、スカートの端をつまんで膝を折り、カーテシーのおをしてみせた。
 癖一つない長い金髪が垂れ下がる。
 カーテシーは目上の人間に対する挨拶である。ウィルとしては恐縮するしかない。

「ぼくはまだ伯爵家を継いでいないし、そこまで礼を尽くしていただく必要は……」

 目の前の女性はムーア子爵家を継いでいる女当主なのである。
 しかも年齢もウィルよりも一つ上である。

「ムーア家は格下の子爵家ですし、わたしは女当主ですので……」

 レベッカの白い鼻筋はすっと通り、もとは切れ長で、澄んだ泉のような透明感があった。
 昔から美人だと思っている女性が自分を出迎えるために着飾っているのだ。
 ふとウィルは気がついた。
 レベッカの話す言葉は丁寧だが、口調がどこか硬い感じがする。
 まるで今日はこういう自分で行こうといった感じの、どこか演劇を見せられているような雰囲気を感じる。

(なんだかやりづらいなあ……。レベッカの口からまだ招待の目的も聞いていないし……)

 ウィルはふうっとためいきをついた。

「さあ、どうぞ」

 優雅に歩くレベッカに連れられて、客間へと続く廊下を歩く。
 領地の屋敷がローマ趣味ならば、ムーアの屋敷は装飾の華美なロココ調で、父親のマルク伯爵が好みそうな内装であった。
 ふと、振り返ると、小柄なマイヤは借りてきた猫のように澄まして、しずしずと目を伏せて歩いていた。
 いつもは少し跳ね気味の赤い髪の毛は綺麗にでつけられている。
 少女の小さな手の甲はまだれが治まっていない。トリスが厳しく指導したためだ。
 この少女は、ウィルのために必死になって貴族の礼儀作法を覚えてくれたのだ。
 銀髪のソフィアは華美な屋敷にはまるで興味がないようで、窓の外の芝生を見ながら無造作な足どりで歩いていた。
 マイヤのように少しくらいは礼儀作法を覚えてくれないかなあと思うが、長い道のりのような気がしてならない。
 赤毛のギュンガスは、そんな二人の後ろを、唇の端を少しり上げながら歩いている。
 そして、ときどきさりげなく屋敷の隅々に視線を向けている。かと思うと、小姑のように窓枠を指でなぞり、ふっと息を吹きかけた。
 馭者を除いて、これが今日連れてきたお供の三人である。
 客間の扉をくぐると、そこには華美な空間が広がっていた。
 ウィルは美術にあまり詳しくはないが、天井画は著名な画家によるものだろうし、黒光りする黒檀のテーブルの向こうには、革張りのソファーが見える。
 銀のしょくだい一つとっても金がかかっていることが分かる。
 伯爵家に比べると家格は低いが、全く見劣りすることのない贅を尽くした部屋である。
 赤毛の男はようやく満足そうにうなずいた。

「さあ、おくつろぎください」

 白いドレスのレベッカに促されて、ソファーの一端にウィルが座る。
 香木の匂いであろうか。ソファーからはウィルのこうをくすぐる優しげな匂いがただよっている。
 レベッカはその隣に、膝が触れあうようにして座った。

(あ、隣に座るんだ……)

 隣から涼しげな清純な香りが漂う。
 こうやってそばに侍られると、寄宿学校時代の女性経験のないウィルならば、たちどころに鼻の穴を膨らませて転がされていたかもしれない。
 だがよく観察すると、レベッカはときおり白い喉をわずかに震わせていた。
 いくら練習したところで、急にえんじょのように振る舞うことは不可能なのだろう。
 幾多の女中メイドを抱いたウィルは、レベッカが無理をしていることをすぐに見抜いたのである。


   ‡


 ムーア家に出発する前日、ウィルはマルク領の屋敷の一室に座っていた。
 目のまえの低いテーブルを、トリス、ギュンガスが囲んでいる。

「ムーア子爵家は一千万ドラクマ以上の借金を抱えていますね」

 赤毛の男は、にやりと笑ってそう報告をした。

「そんなに……?」

 ウィルは目を丸くする。
 女中長ハウスキーパーが頷いた。

「わたしがはじめて耳にしたときは三百万ドラクマほどでした。雪だるま式に負債が膨れあがってしまったようです。ムーア家を辞めた女中を面接しているときに聞きました。無論、守秘義務を守らない女中など採用しませんでしたが」
「わたしのほうはムーア子爵家に勤めている侍女レディースメイドからの話です。向こうはわたしのことを恋人だと思っていますから、まあ、信じて問題ないでしょう」

 マルク家の従者ヴァレットは、毎日何通もの量の手紙をやりとりして、あちこちの貴族家から情報をかき集めているようであった。

「昨年は、レベッカ様の辣腕もあって大儲けをしていたようですが、今年は一転して大火傷しているようです」
「大儲けってどうやって?」
「小麦の空売りです」

 ギュンガスがそう答えた。

「空売りって、ああ。あのオリーブ売買で使う」

 ウィルはぽんと手の平を打った。
 すると、ギュンガスは、おほんと一つ咳払いをして言葉を繋げる。

「もともと空売りという仕組みはオリーブ農家の生活の安定のために考え出されたものでした。オリーブという作物は年ごとの収穫高の変動が大きいですから。収穫予定の作物を、あらかじめ取り決めた値段で売却する契約を交わしておけば、農民はオリーブ価格の暴落におびえずに生活できるという寸法です」

 豊作が農家にとって必ずしも良いかというとそうでもなく、暴落して二束三文でたたき売らないといけない場合もある。

「空売りという仕組みは保険ではなく投機にも使えます。もちろんオリーブ以外の作物についても。毎年、小麦の収穫の時期が近づくと、小麦の価格が下がります」
「一応、ぼくでもそのくらいは知っているよ」
「あ、そうか。ウィリアム様は王立学院の首席だったか……」

 ギュンガスはひどくつまらなそうな視線を向けてきた。意外に説明したがりなのかもしれない。

 おそらくレベッカはこの仕組みを投機のために使ったのであろう。
 だが、あのさいえんがそこまで博打にのめり込んで失敗をするだろうか。そういうタイプには思えなかった。

「レベッカはそこまで無謀な商いをしたの……?」
「さあ? 今年の相場は政治的な要因もあって難しいことだけは確かですね」

 ギュンガスがそう言った。

「政治的な要因?」
「先日、ヨハネ男爵がお忍びでいらっしゃいましたが、ここのところ王兄派と王弟派の対立が先鋭化しています。戦争のための備蓄も必要でしょうね。そのためか、ここのところ小麦は異常な高値をつけています。まあ、それにしたって、ちょっと上がりすぎなんですけどね」

 ギュンガスは、小麦の市場価格の推移がに落ちないのか、首をかしげた。

「もう、そろそろ収穫がはじまっているというのに、価格は一向に下がる気配を見せません」

 トリスはそう言って溜息をついた。
 小麦の買い付けはトリスの仕事である。貴族家の家計への負担も無視できないようであった。

「しかし一千万ドラクマって、凄い金額だよ? どうやってそこまでの……」
「ムーア家は土地や家財まで抵当に入れているのでしょう」

 ギュンガスがそう答えた。

「土地や家財を抵当に入れて……う……ぞっとする。失敗すれば即没落じゃないの」

 ウィルは青い顔をした。

「そのとおりです。ムーア家は、空売りの期限が来る前に売却した小麦を買い戻さなければなりません。それができなければ破産します」

 ギュンガスはニヤニヤと笑いながら言った。

「なんか楽しそうだよね」

 ウィルはあきれるようにそう呟く。

「楽しいですとも。きっとウィリアム様が訪問されたら、精一杯、無い袖を振るのですよ。栄華と没落と虚飾。それでこそ貴族家です。しかも、それが才能あふれる美貌の女当主によるものなら言うこと無しですね」

 ギュンガスは両手を広げて、悦楽の笑みを浮かべて、ぞくぞくと身を震わせた。

ゆがんでるなあ」

 マルク家は変な人間が多い気がしなくもない。

「それはそうと、だったらレベッカはなにを望んでいるのだろう?」

 ウィルはそう首を捻った。

「普通の貴族家の令嬢なら、望むものはご主人さまとの婚姻でしょうね。もちろん、マルク家が一千万ドラクマの借金を被ることになりますが……」

 トリスはそう言った。

「無理でしょう。釣り合いません。ムーア家は敵対派閥であるチルガハン家と婚姻を結んでおりますし、そもそもウィリアム様のお父上は力のない貴族との婚姻を望まないでしょう」

 ギュンガスは赤毛を掻き上げて、そう断言する。

「ならば、いまムーア家の当主が望んでいるとすれば――」

 そうトリスが言い、

「そうですね、もちろん――」

 ギュンガスが頷く。

「ま、待って! ぼくだけ分からないのも腹が立つ。まだ答えを言わないで!」

 ウィルはソファーから立ち上がって両手を挙げ、続きを言おうとする二人を制したのであった。


   ‡


「あ、あの……。ウィリアム様」

 レベッカが少し喉を詰まらせながら言葉を発した。

「なに?」

 金髪の女性は、自身の細い肩にウィルの手が回されて困惑している様子がありありだった。

「いえ、なんでもありませんわ……」

 目の前にお茶が運ばれてきた。
 お茶を運んできた侍女がギュンガスのほうに色目を使い始めた。
 ギュンガスは舌打ちせんばかりに無視をしているが、女の態度はあからさまだった。
 それを気どらせないようにしたほうがいいと思って、ウィルはレベッカの肩に手を回したのである。
 ウィルはかつての同級生の肩の感触を指の腹で感じながら、どきどきとするものを感じていた。

「ウィリアム様は、農場の管理を引き継いだとお聞きしました」

 やがて、レベッカは本題とばかりにそう切り出した。
 誰からどのようにして聞いたのかは分からない。
 普通なら、そこまで細かい貴族家の内情のことなど分かるはずがない。

「……」

 ウィルが答えず黙っていると、レベッカが少し焦れたように口を開いた。

「マルク領は広大です。運河を引き灌漑農業を広げれば、より多くの収穫があがります。できるだけ早く取りかかったほうが――」
「でも灌漑には多額のお金がかかるよ」

 ウィルがそう言うと、レベッカは顔を歪めた。

「マルク領の草原は肥沃な土地です。必ずかけた以上の見返りがあがります」
「本当かなあ」

 レベッカの言うとおりだと思ったが、とりあえず混ぜっ返してみた。

「む。あれだけ有益な土地を遊ばせておくのは実にもったいないです。本来ならばマルク領は独立国家になってもおかしくないくらい広大で豊かな土地を所有しているというのに。それを開発してこなかったのは怠慢な領地経営としかいいようがないわ」

 レベッカはぴしゃりと言い切った。

「お、お嬢様……」

 レベッカの侍女がおろおろしている。

「でもさ。草原を耕地化すると、初年度だけは収穫があがるらしいけれど、それ以降は土が合わないのか、あまり実が大きくならずに、年々土がやせ衰えていくことが多いらしいよ」
「それは農業のやり方が悪いのよ。ウィルは固定観念に囚われすぎだわ」

 だんだんとレベッカがヒートアップしてきた。呼び方も学生時代のウィルに戻っている。

「土地にあった輪作をすればよいの。そしてそれでも実が大きくならないなら、せきけば大地の養分を補充することができる。幸いマルク領は港から近いから輸送もやりやすいわ」
「過石って、骨粉に硫酸を混ぜて作るんだっけ? あの怪しげな錬金術師が使うような劇薬じゃないか」

 ちらりとうかがうと、レベッカの金色の眉が強いカーヴを描いていた。

「過石には、作物を大きくするごえの効果があることが確認されているわ」

 石灰のように白い肥料を土に混ぜれば、土地が肥えるらしい。それはウィルも聞いたことがある。

「でも、レベッカは領地経営には素人だからな」
「なっ、素人とは失礼な!? わたしを女と侮る気なの?」

 レベッカは頭は良いが根が素直で単純なのである。ウィルの安い挑発に簡単に乗せられてしまう。

「そういうつもりはないんだけど。だったら、レベッカならどんなふうにマルク家の領地経営するの?」
「む……そうね。わたしなら、船で荷を運べる幅広の運河を南北に引くわ」
「でもせっかく引いた運河で農作物を運ぶの? 南北の運河を経由すると消費地から遠回りになるよ?」
「ふふん。マルク領の南では石炭が取れるわよね。そうすると、運河の北から鉄鉱石を運べるわ。製鉄所を作ればいいのよ。鉄はこれからいくら作っても足りなくなるわ「ほおほお」そして……」

 はっとレベッカは口籠もる。面白いように口をすべらせ、領地経営のアイデアがウィルによって引き出されていた。
 ウィルはさらに挑発する。

「さらに造船所を作ると。運河を引いておけば北の海にでも西の海にでも出られるからね。このくらいなら僕にだって思いつくよ」

 ウィルの発言は、レベッカのように綿密な試算に基づいた着想ではない。
 運河を引けば船を通せるだろうという、その程度の連想であった。

「くううう……」

 だが、レベッカは歯噛みした。
 レベッカはぎゅっと目を瞑った後、

「……南の黒い沼の油を運びます」「なんだって!?」

 唐突にそんなことを言ったのだ。
 論理は繋がっていないが、ウィルにとって、それは全く予想もしていなかった着眼点であった。
 マルク領の南を少し越えたところに、どろどろとした黒い油を産出する沼がある。
 燃やせば煤がひどいし、臭いもきつい。燃えかたも安定しない。石炭よりも使い勝手がよくない。
 有効な利用方法が思いつかないのだ。

「どうせ突飛なアイデアと馬鹿にするんでしょうけど蒸留をすれば……」
「蒸留だって!?」
「……え、ええ。蒸留酒を造るのと同じように分留するための塔を建てれば……」

 レベッカの言葉がごにょごにょと尻すぼみになっていく。

(レベッカは凄いな……)

 本人は荒唐無稽なアイデアだと恥じているようだが、ウィルはレベッカの発想力に心底感心していた。
 ウィルはトリスが蒸留室スティルルームで使っていた硝子ガラスの蒸留塔を思い浮かべていた。
 物体は成分ごとに沸点が違う。あの黒い油になにが含まれているか分からないが、成分ごとに分離すれば、なにか有益な利用方法が出てくるかもしれない。
 そのための施設がどれほど大がかりになるか分からないが、昨今の技術の発展は著しい。もしかしたら南の黒い沼地は大きな価値を持つのかもしれない。
 ウィルは目の前の女性を金色の頭の上から、白いドレスの足の先まで、じっくりと眺めた。
 すると、レベッカはたちまち居心地悪そうに軽く身じろぎをする。
 ウィルは背を伸ばしてソファーに座り直した。
 目の前の女性は、小麦の空売りの失敗の危機さえ乗り切れれば、やがて世の中に頭角を表わしていくのであろう。
 ウィルは、膝のあいだで指を組んで、レベッカの優美な顔を真っ正面から見つめ、口を開いた。

「レベッカ、君の狙いは小麦の価格を少しでも下げることだろう。広い農地を抱えるマルク家に、できるだけ早く小麦を刈り入れさせて市場に供給させるか、空売りで保険をかけておくかしてもらいたいんだよね?」
「う……」

 図星を突かれたのか、レベッカは彫像のように固まったのだ。


   ‡


 マルク領の屋敷で打ち合わせをしていたときに、ウィルがその答えをひねり出すと、

「さすがはご主人さま」「ご名答です。チッ」

 二人の使用人はそう褒め称えてきた。

「二人ともそのくらい分かって当然という顔をしてるよ。というかギュンガス、いま舌打ちしたよね。絶対舌打ちしてたよね?」

 ウィルはそう問い詰める。

「いやあ。あまり主人が頭が良すぎると使用人はやりづらいんですよ」

 赤毛の男はしれっとそう言い訳をした。

「まあギュンガスの言い分も一理あります。ご主人さま、なにも使用人と能力で張り合う必要はないんです。主人が犬の代わりに吠えて何になりましょう」

 トリスがそうなだめてきた。

「そのとおりです。主人のメンを立たせようと気を使っていたら、使用人は能力を十全に発揮できません」
「いや、だって君らそんなタマじゃないし」

 ウィルはそう言って溜息をついた。

「うん。どうすればムーア子爵家を救えると思う?」

 ウィルがそう言うと、この上級使用人二人は鼻で嗤った。

「青臭いところがお可愛かわいらしゅうございます」
「ウィリアム様はまだお若い」
(な、なんかムカツク……!)

 ウィルは二人の上から目線の態度に憤りを覚えた。

「ふふ。ご主人さま、ご想像ください」

 そうトリスが口を開いたのだ。

「ムーア家の女当主のドレスの胸の谷間を左右に引きちぎり、女の金色の御髪を掴みながらベッドへと引きずっていくご主人さまの勇姿を。ああ、なんというご立派な」

 相変わらずのトリス節であった。

ねやでの楽しみ方はさておいて、我々はいかにレベッカ様を掌握するか考えるべきです。ムーア子爵家を破綻させないと、レベッカ様はご主人さまの雌犬にはなりません」

 そうトリスが言い切ったのだ。
 トリスの言葉はひどいが、ある意味で的を射ているのである。
 ムーア家をマルク家の被保護家クリエンテスとして囲い入れたところで、ヨハネ家のように情勢次第では離反する可能性もある。
 マルク家がいま農地経営を手助けさせるために喉から手が出るほど欲しいのは、ムーア子爵家などではなく、レベッカ個人の才覚であった。
 女の持つ、潰れかけたムーア子爵家の肩書きなど邪魔にしかならない。

「ならば、我々も小麦の買い占めに参加しますか?」

 というギュンガスの言葉に、

「残念ながら、いまうちにそこまでのお金はありませんね」

 そうトリスが溜息をつき、

「だよね」

 とウィルも同意した。

「小麦価格を上げるだけなら、王兄派と王弟派の対立を煽るのもよいかもしれませんね。ヨハネ男爵に絶縁状を叩きつけるとか……。きな臭くなれば貴族は小麦の備蓄を増やすでしょう」

 うれしそうに案を出すギュンガスに、ウィルはやれやれと溜息をついた。

「勘弁してよ。そんなことをしたら小麦相場がさらに上がって市民の暮らしは一層困窮するじゃない……」

 そんなウィルの言葉に、

「ええ。市民のくらしなど、どうなったところで我々には関係がないではありませんか」

 ギュンガスは、きょとんとしてそう答えたのだ。
 この奴隷として買われてきた従者は、貴族以上に貴族的な考え方をする。
 もっともウィルが心配している市民というのも、小麦を食卓に並べる余裕のある中流階級以上のことを指す。
 それ以下の庶民のくらしは、あまりに文明的で無さすぎて共感できないのであった。
 奴隷市場で見た奴隷のように、目の当たりにするとさすがに心は痛むものの、せいぜい為政者として農地を視察して回るくらいしかしていない。

「レベッカ様を助けるために、われわれも小麦の空売りに参加するという手があります」

 ウィルが少し不満そうにしていたためか、赤毛の男はウィルの様子をうかがいながら、そう言った。

「小麦相場の売り方に回るのか」

 今度は、ウィルの好みにあう提案である。

「うちはこれから小麦の収穫期に入りますから、もし暴落したときのことを考えれば保険になりますよ」

 どうせ相場の先行きは読めない。
 マルク家であがる収量の分の小麦は空売りにかけてしまっても問題がないように思える。
 ウィルは、テーブルの上に広げられた紙をじっと眺めていた。
 そこには、右肩上がりに伸びていく小麦価格の線グラフが描かれている。
 そして例年であれば、収穫期を境にここでがくっと暴落する。今年は特に小麦が不作なわけでもない。
 そして小麦価格の推移から判断しても、売り方に回ったほうが勝算が高いように思える。

「いまなら投機に走って、小麦が大暴落するほうに全力で張っても良いのではないでしょうか?」

 ギュンガスの言葉に、ウィルはごくりと喉を鳴らした。
 この博打に成功すれば、当面の金策から解放されてソフィアの妹捜しに注力することができるだろう。
 さらに資金不足が障害となっている案件がいくつか解決する。

「トリスはどう思うの?」

 ウィルが頭を振りながらそうたずねると、

「わたしは屋敷を維持するための女ですから、できるだけ無用なリスクは犯したくありません」

 トリスはいつも通り冷静だった。
 トリスはできれば小麦の買い方に回りたいがその資金がない。そしてできるだけリスクは負いたくない。
 ギュンガスのほうは、保険どころか全力で小麦の売り方にまわり、大儲けを狙いたい。
 意見が分かれてしまった。

「最終的にぼくが判断する。いいね」

 ウィルはどうにも考えあぐね、そう告げたのである。


   ‡


 ウィルは姿勢を正し、ソファの横に座る貴族に、できるだけしんに語りかけることにした。

「レベッカ。ムーア家はあとどのくらい保つ? 僕はきみのために何ができる? 腹を割って話をしよう」

 すると、部屋の隅でギュンガスが額に両手をあてて頭を抱えているのが見えた。
 なんでそんなにあっさりと手を差し伸べるのかと言いたげであった。
 ウィルにも、だんだんとギュンガスの嗜好が掴めてきた。
 没落する貴族の女が悲嘆し、足掻き、醜態をさらすのを見るのが、あの赤髪の優男の大好物なのである。

「もし君が腹を割って話をする気がないなら、ぼくは席を立つ」

 そう言い切るとレベッカは青い瞳を大きく見開いた。
 ウィルの濃褐色ブラウンの瞳と、レベッカの青いブルー瞳の光が交錯する。
 すると、清純な小川のせせらぎのように、女の青い瞳がじわっと湿り始めた。

(え……え……?)

 ウィルは戸惑う。
 冷たい容貌をしていた少女は、幼い童のように下唇を噛んでぽろぽろと泣き始めた。

「……ひっく。……ぐす。またウィルに負けた」

 金色の眉は情けないカーヴを描いている。

(い、意外に涙もろいのね……)

 もっともウィルとて、レベッカと同じように家が潰れかけになって平常心を保てる自信は全くないのであるが。
 王立学院のときに試験の結果が壁に張り出されたとき、いつもこの金髪の少女はウィルをひとしきりにらみつけてから、ふらっと姿を消していたが、もしかすると、こんなふうにどこかで泣いていたのかもしれない。

「……わたしのこと、情けないやつだと、ぐすっ……思っているわよね?」
「え……? いや、そんなことないよ?」

 ウィルは慌ててクビを振る。

「わたしは……ウィルに……三年間っ……一度も勝てなかった……」
「あー」

 そのことは両の拳で目を擦る女性にとって予想以上に重くのしかかっていたようである。

「……しかも、今回は……ひっく、……完膚無きまでに負けた……感じがずる……人間的にも……わたしはウィルにまけた……」
「え!? い、いや、そんなことないって」

 ウィルは、なぜレベッカがそこまで言うのか訳が分からない。
 とりあえず、ウィルは思わずといった感じで金色の頭を撫でてやった。
 するとぴくっとレベッカの頭が揺れた。

(あ、あれ? つい撫でてしまったけど、いけなかった?)

 だが、レベッカは金髪の頭をぐりぐりとウィルの肩越しに押しつけてきて、

「……ああ、ずっとこうしてもらいたかった気がする」

 ようやく止まり木を見つけたように、そう言ったのであった。

「……あれオレの得意技なのにな……」

 部屋の隅に控えていたマイヤは不満そうにそうらす。
 一方のソフィアは何の茶番だという感じで欠伸をしていた。

「まあ、こんなところですか」

 ギュンガスはそう、つまらなそうに呟いた。

「……今後、なんでも言うことを聞くわ……ムーアはマルクの傘下に入る……」
「あ、あれえ……なんでこんなことに」

 白いドレス姿の金髪の才媛にぎゅっと抱きつかれ、ウィルはそんな戸惑った声をあげた。
 泣き止んだレベッカに案内されたムーア子爵家は、予想以上に惨憺たる有様であった。
 とにかく屋敷に物が何もない。
 案内された部屋の大部分は空っぽである。
 白い壁面にはわずかな色の違いが境界線のように走っているのが見えた。以前、そこには棚や絵画などが置かれていたのであろう。
 ウィルの案内された客間以外の家財道具はほとんど全て売り払われているようである。
 使用人も大半を解雇してしまっている。

「ええっと、レベッカ。いま君はどこに眠っているの?」

 レベッカの私室も、空っぽで物一つ置かれていなかった。

「さきほどわたしたちが座っていたソファーの上よ。わたしはあそこで寝起きをしているの」

 レベッカはそう顔を赤らめる。
 ほんのりとした香木のようなソファーの香り、どうやらあれはレベッカの生活臭だったらしい。

「来週で、この屋敷も差し押さえられるわ」

 レベッカは、首を振りながら寂しそうにそう呟いたのであった。


   ‡


「小麦大袋あたり六十ドラクマ。これが三十ドラクマ付近まで値下がりすれば、ムーア家は潰れなくて済むわけだね」

 ソファーの隣でウィルの服のすそを掴んだ女がこくこくと頷く。

「ひと月以内は厳しい条件ですよ」

 ギュンガスがそう溜息をついた。
 ウィルも頷く。
 勝算は五割もないだろう。

「段取りを整理しよう。マルク家は収穫見込みの小麦を空売りする。悪いけれど、あくまで保険のための空売りで、博打をするリスクは犯せない。できるだけ小麦価格を下げるように誘導する。ムーア家が無事に存続すればマルク家の傘下に入り、駄目だったらレベッカにはマルク家の使用人としてぼくに忠誠を誓ってもらう。それで恨みっこなし。いいね?」

 ウィルの言葉に、レベッカは大きく頷いた。
 いま、ムーア子爵家の女当主は、マルク家に客人として逗留している。ついにムーア家の屋敷まで差し押さえられてしまったからだ。

「ウィルは本当に人が良いわね」

 この金髪の同級生は、人形のように整った顔でじっとウィルの顔を見上げた後、しみじみそう呟いたのであった。

「そうかな?」
「もはや、わたしは土地の権利書だけかろうじて持っている名ばかりの貴族なのに。ウィルはフェアな条件を提示してくれているわ」

 他家の二男や三男が、大貴族の執事や従者になることは往々にして起こりうるし、嫁入り先の見つからなかった貴族の令嬢ならば侍女になることが一般的であろうか。
 そう言われて、ウィルは複雑な顔をした。

「どちらかというとぼくは良心の呵責をしているだけなんだよ。一月後、小麦相場が暴落しなければ、ぼくはきみを自分の女として扱う。その意味分かるよね?」

 そう問いかけると、レベッカは白い顔をみるみる赤くして、俯いて身じろぎした。

「ご主人さま」

 そこで、トリスが口を挟む。

「レベッカ様が貴族の身分を失った場合には、ご主人さまの女になるのではありません。女使用人になるのです。決して、女などというご主人さまに甘えてよいような対等なあいだがらではございません」

 トリスがウィルの言葉をそう補足したのだ。
 つまりウィルの愛人に据えるのではなく、女中の一人として屋敷で働かせろということか。

「もう。話の腰を折らないでよ」
「申し訳ありません。ですが、とても重要なことですから」

 すると、レベッカはくすくすと笑っていた。

「女使用人ということは、わたしに屋敷の仕事を任せてもらえるのかしら?」

 レベッカが、女使用人という言葉の実際に意味するところが分かっていないのは明らかであった。

「うん。農場の経営を任せようかと思っている」
「え? その場合わたしは家を破産させた人間ということになるのだけど、信用してもらえるのかしら?」

 レベッカは思案げにそう問いかける。

「ご主人さまは一度抱いた女は信用なさいます」

 トリスがそう断言した。

「ちょ、ちょっと、変なふうに決めつけないでよ」

 そうウィルはふんがいした。

「と、とにかく僕はレベッカの能力を高く評価している。いま、この屋敷に領地経営のための人材が足りない。レベッカには僕を助けてもらいたいんだ」

 ウィルがそう言うと、レベッカは目を大きく見開いた。口は指二本入りそうなくらいぽかんと開けられている。

「……はっ。あ、うん。協力するわ」

 一瞬の間を置き、コクリと頷いたのだ。

「だいたい、まだムーア家は破産すると決まったわけではないよね? 小麦価格が三十ドラクマまで下がれば、レベッカは自分の領地に帰ることができるんだから」
「あのね。それはきっと無理なの」

 だが、レベッカは物憂げにそう言ったのだ。

「え? でも、本格的な収穫期になって小麦が市場に供給されれば、いずれ価格は下がるよね?」

 ウィルはそう首を傾げる。
 半々よりも少し厳しいくらいの確率でムーア家は助かるだろうと予想を立てていたのだ。

「わたしはまなこになって小麦相場を追ってきたけど、今年の値動きは特に不自然なのよ」
「不自然?」

 ギュンガスも今年の相場は難しいと言っていた。

「ええ。調べてみると、王弟派の貴族の屋敷に空売りを勧める商人が出入りしているようなの」

 レベッカは、忌々しそうに癖一つない金髪をかきあげた。

(商人……?)

 それを聞いて嫌な予感がした。

「小麦は必ず値下がりするからと空売りが大流行したわ。最初のうちは多くの貴族が空売りで儲かっていたものの、あるときを境に小麦価格がうなぎ登りに上がったわ。きっと誰かが空売りによって一時的に値下がりした小麦を買い占めたのね」

 レベッカは、ぎりっと爪を噛んだ。

「莫大な資金力を持つだれかが裏で糸を引いているのは間違いないわ」

 ふいにウィルの嫌な予感が確信へと変わった。
 たしかソフィアは以前こう言っていた。

『わたしの妹がぎんろうぞくかんなぎで、予言する力がある』
『予言の力を悪用されたら大変なことになる』

 ソフィアの妹を攫ったのは商人だった。
 商人ならば予言の力を商いに使おうとするだろう。
 だが、ここまで壮大なスケールで国を動かせるものなのか。

「もう少々の小麦が市場に供給されたところで小麦価格は下がらないわ。すでに多くの貴族が空売りに参加してるということは、売った分を買い戻す圧力が強いということですもの。いまや小麦相場はイカサマのカードゲームのようなものよ」
「え、でも、小麦なんて生活必需品だから、外国からいくらでも入ってくるよね?」

 ウィルの疑問に、レベッカは知らなかったのかと呆れる感じで、首を傾げた。

「ご主人さま」

 トリスが横から口を挟んだ。

「外国から入ってくる小麦には今後、三百パーセントの関税がかかります。先日、王に承認され、国境には関所が設けられました。小麦の空売りに関わっているのは王弟派が主です。王兄派は、王弟派の資金を絶つことを狙っています。マルク伯爵もそのために動いたそうです」

 それを聞いて背筋が寒くなった。

「今後、破産する貴族が数多く出るでしょう」

 レベッカはそう断言した。

「え? あれ? このままだと大変なことにならない?」

 ウィルがぼうぜんとそう呟いた。
 いま市民たちは、天井知らずに上がる小麦価格に不満をつのらせている。
 いくら政敵を打ち倒すためとはいえ、没落する貴族が多くなれば大きな社会変革に繋がりかねない。
 ただでさえ欧州の西方では市民革命が盛んだというのに。

「ねえ、ウィル。まず、謝っておきたいの」

 ふとレベッカがそんなことを切り出した。

「実は、マルク家に空売りで大火傷させようと思って、ウィルを屋敷に招待したのよ」

 レベッカはそう言うと、部屋の片隅でギュンガスがぶるっと身を震わせた。

「ウィルの側近の誰かが、より儲け幅を大きくしようと唆してくれるのではないかと期待していたの。わたしも空売りによる投機を勧めようと思っていたし」
「もし欲を出していれば、深みにまってしまっていたというわけですか」

 ギュンガスは心底やられたという感じで天井をあおいでいた。

「まあ、やってみないと分からないけれど、おそらくわたしの言った通りになるわ」

 机のうえに広げられた小麦価格の推移は、簡単に大儲けできるという誘惑を感じさせる波形を描いている。
 もし市場を操作する黒幕がいることをレベッカに教えてもらわなかったら、いずれその誘惑にあらがえなくなっていたかもしれない。

「なんでそんなことを……ぼくはレベッカになにも悪いことしてないじゃない!?」

 ウィルがそう憤慨すると、レベッカは上目遣いに見つめてきた。

「もう人生終わりだから最後になにをやっておくべきかって考え始めたら、あなたに一度も勝てなかったことが頭から離れなくなってきて……」

 女の情念とは恐ろしい。つくづくウィルはそう思った。

「……それでぼくが腹を割って話をしようと言ったら、ひどくショックを受けていたわけだね」
「ええ。ごめんなさい。もう迷惑をかけようなんて気はないわ」

 金髪の才媛がぺこりと頭を下げて謝った。

(あ、あぶなかった)

 ウィルは、思わず胸を撫で下ろす。
 気がつけば、薄氷の上に誘い込まれていたのだ。



◇ 屋敷の女性一覧 ◇

女中長   1人 (トリス◎)
蒸留室女中 2人 (リサ◎・サリ◎)
洗濯女中  6人 (第一:ジュディス◎)
         (第二:イグチナ◎・ブリタニー◎・シャーミア◎)
         (第三:アーニー◎・レミア◎)
料理人   1人 (リッタ◎)
調理女中  3人 (ジューチカ)
皿洗い女中 2人 (ルノア・ニーナ)
酪農女中  3人 (ケーネ)
客間女中  1人 (フローラ◎)
家政女中 12人 (ヘンリエッタ)
雑役女中  8人
側付き女中 2人 (ソフィア△・マイヤ◎)
客人    1人 (レベッカ)
    計42人
お手つき 12人 (済み◎、途中△)





第三十話「薄氷を踏む女」へのコメント:
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