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第二十二話「幕開け」
敷居をまたぐと、昼前の調理室は忙しさの佳境にあった。
白いエプロンをつけた第一調理女中のジューチカが慌ただしく手を動かしている。
細い手で握った大きなフライパンを炎の上で回し、塩胡椒を振り、手早く味付けをする。
そのたびに頭の高い位置に括った黒髪が尻尾のように揺れた。
このポニーテールの少女の背は、ウィルと同じくらい。身体の起伏に乏しく、ひょろ長い。
華がないのが逆に味になっているというのがトリスの評だった。少女には悪いが、たしかにウィルから見てもどこか苦労性で貧乏くさい印象がある。
そのジューチカの隣で、ざくざくと野菜を切っているのは二人の第二調理女中であった。
同じくらいの背格好の少女が、大きめの白い女中帽で髪をすっぽり覆い隠し、口許にはマスクまで被っているため、リサ・サリみたいに見分けがつきにくい。
ここでは、四十人もの女中たちのために飯を作るのである。
ほかにも、ウィルはもちろんのこと、従者のギュンガスや白熊のようにずんぐりした馭者長、職人気質な園丁長などの男性使用人の食事も作らなければならない。
厨房は料理人のリッタと、第一調理女中のジューチカ、二人の第二調理女中、そして、二人の幼い皿洗い女中たちの、計六人により切り盛りされていた。
先日、腕の良いマイヤが抜けて、この職場は随分と苦労をしていたのだ。
いま、ジューチカの握るフライパンからじゅっと香ばしい匂いが広がる。パスタを作っているらしい。
金髪の短髪を汗で頰に貼り付けた、小柄な女が、第一調理女中の掻き回すフライパンから一本麺を摘みあげて、口に放り込むと、
「火の通しが甘いね! 味付け薄い!」と言った。
「こうやるんだよ」そう、さもフライパンをもっているかのように身振り手振りで示す。
流れるような動きでとても分かりやすい。
遠目にみていても、なんとなく、料理のコツが分かってくるような気にすらなってくる。
小さな身体の背筋をピンと伸ばして、部下に指図する姿は実に凛々しかった。
(凛々しい?)
だれだこの女は、という気持ちも感じなくもなかったが、この指導している短い金髪の女は――リッタである。
なんだか憑き物でも落ちたような顔をしていた。
こういう忙しいときでも調理女中に料理を教えてあげられるのがリッタの美点のようだった。
ジューチカは、真剣な表情で頷き、もう一度細い腕でフライパンを揺する。
そして、リッタが味見をするのをこの第一調理女中が固唾を飲んで見守っているのだ。
「うん。いいね、上手くなったよ」
リッタがそう満足の意を示すと、
「ついにできた! わたしにもできた! うう……うれしい……!」
ジューチカは両手を握りしめ、その場で足を踏み鳴らす。
ぎゅっと目をつぶった少女の黒いポニーテールがぴょんぴょんと揺れている。
「大袈裟ねえ。慣れれば簡単だよ。この仕事は次から任すからよく練習しておいてね」
「はいっ!」
リッタはけらけらと柔らかく笑い、自分より高い位置にあるジューチカの頭を撫でてやった。
マイヤによると、ジューチカは慣れるまで要領は悪いものの、少しずつ確実に技倆を磨いていくタイプの少女であるとか。
不器用だが、真面目で一途――ウィルもそういう印象を持っていた。
ふいにリッタの近く棚の陰で、小さな人影がもぞりと顔を覗かせた。
ウィルの腰の高さほどしかない二人の幼女――黒髪のルノアと金髪のニーナが、きらきらした瞳でリッタの指導を熱心に見つめている。
他の調理室の女中たちも、リッタのフライパンさばきを尊敬のこもった眼差しで眺めていた。
リッタの小柄な身体には、アンバランスに大きな胸や尻だけでなく、料理人の技がぎゅっと詰まっている。厨房の女たちは、いつか憧れの高給取りの料理人に昇格できることを夢見て、日夜、技術を磨くのだ。
「こら! あなたたちも仕事があるでしょう? ほら、手を休めない!」
フライパンを持つ手を休め、ぱんぱんとその場で手のひらを叩き、年端のいかない少女たちを散らせる。
リッタはしっかりとした足取りで調理室の煉瓦の床を踏みしめて、小柄な体躯で周囲に睨みを利かせた。
多少人格に問題があろうとも、職人は黙って腕の良い奴に従う。
そして、腕の良いやつが教えてくれるなら他に言うことは何もない。特に料理人の道はそういう世界であった。
そういうわけで、この金髪の女性は、昨晩までのような醜態をさらしていても、いまだこの厨房の長であったのだ。
ウィルは、ここに来る前のマイヤの『ほっとけって。大丈夫だから――』という言葉をしみじみと実感していた。
しかし、周囲を見回すその碧い瞳がウィルの顔に止まると、
「あ、あら!?」
凛々しく引き締めていた眉が下がり、唇がだらしなく緩まった。
先ほどまで職業意識の通っていた脚が腰砕けになるように、へなへなと内股になり、白いズボンの内側をすりすりと擦り合わせている。
「ご主人さまァ……」
リッタはもう十年もそう言い慣れているかのように、滑らかにその言葉を口にした。
以前は若さまと呼ばれていた気がする。
いま、調理室の女中たちは、この部屋の長の少々の奇行などいちいち気にしてられない。
だが――
「なにかお作りいたしましょうか?」
金髪の女がそう言った途端、ぎょっと調理女中全員が目を剥く。
昼前の時間のないときに、この料理人は一体なにを言い出しているのだろうか――
いまのタイミングで、急に一品増やされたら、いろいろな予定が狂うだろう。
この職場からマイヤがいなくなってからというもの、余分な時間は一切ないのだから。
「それとも――」
リッタは、自分のぎゅっと詰まった体を両手でかき抱くようにして、
「わ、わたしを躾けに来ていただけたのでしょうか……」
そう熱い息を吐き、乳を振り乱した情の多すぎる雌犬のように、ウィルのほうへと、ふらふらと歩み寄ってきた。
「ちょ、ちょっとッ」
ウィルは、後ずさりするように、調理室の扉から二、三歩遠ざかった。
「……ちょっとくらいのお時間なら、十分くらいなら、いえ二十分くらいなら躾けていただけます。何だって言うことを聞くと誓いましたから一時間だって……」
ついに調理室を出て、金髪の短い髪の女性が息を荒くしてウィルのほうへと歩み寄ってきたのだ。
(さっきは見直したけど、やっぱりこの人、根本的にかなりダメだ……!)
ウィルはそう思わざるをえない。
鼻息を荒くするリッタの後ろでは、苦労性のジューチカが悲愴な顔をしてぶんぶんと黒毛のポニーテールを左右に振っていた。
彼女は、しばらく上司が職務放棄同然だったために、一番割りを食った少女である。
ようやく調理室の主がやる気を取り戻してくれたのだから、名誉挽回できる機会は逃したくないだろう。
「リッタ、またね!」
ウィルがそう言うと、
「ああん、ご主人さまぁ」
リッタは鼻を鳴らし、小便でも我慢するかのように尻を振る。
ジューチカは、そんな恥ずかしい上司の両脇を後ろから抱えるようにして、ずりずりと後ろ向きに仕事場へと回収していく。
そんな情けない姿に、つい、
「料理期待してるから」
ウィルがそう言うと、リッタの瞳に力が宿り、
「ご、ご主人さま、期待してください! さあ、みんな、頑張ろう!」
途端に足取りがしっかりして、自分の足で調理室のほうへとずんずん戻っていった。
(やっぱり、面倒臭い……)
ウィルは思わず、女中長の『犬のトイレの躾けと同じです。早いうちの教育が肝心ですね』という言葉を思い出していた。
‡
使用人ホールに集まった一同がみな目を丸くしていた。
昨日までとは打って変わって、嘘のように食事が充実したからである。
ちなみに、今日は珍しく従者のギュンガスが使用人ホールに同席していた。任せていた仕事が一段落して屋敷に戻ってきていた。
上級使用人は、与えられた自室で食事を取ることができる。この上流階級好みの上級使用人は、いままで使用人ホールに顔を出そうとしなかったというのに、一体どういう風の吹き回しだろう。
みなの注目がホールのある一点に集中している。
そこではリッタがしゃんと背筋伸ばし、
「みなさん、ご迷惑をおかけしました。これからはしっかり食事を作ります」
そう言って、詫びの言葉を口にしたのである。
いつものおどおどした態度とは違う、堂々とした振る舞いである。
これには使用人たちも拍手を送らざるをえない。
そんなリッタの傍らにはウィルが寄り添っていた。
駄目な女は駄目な女なりに一つ美点がある――男が変わると、考え方やら立ち居振る舞いまで、変わるのである。
ふと横をみると、ソフィアがそっと白い顎をあげて、漆喰の壁のうえに張られた色鮮やかなタペストリーを見上げ、難しそうな顔をしていた。
タペストリーには、花鳥風月と、それらに跨がるようにしてマルク家の家紋が描かれている。
由緒ある見事な年代ものだが、現伯爵が好まなかったため、いまは、この使用人ホールに掲げられているのだ。
銀髪の少女には特例として個室が与えられているのだが、そこには銀狼族に伝わる四十八手の性技を象ったタペストリーが飾られていて、それと比較しているのかもしれない。
少女の横には鏡があり、そこには、まだ手足の伸びきらない、少し頼りなく見える少年の姿が映っていた。
透明感のある白い横顔から、少年のことをどう思っているのか、想像することが難しかった。
しばらくこの少女は、少年の身辺を護衛していたのだ。その間、少年は悪辣な手段も使って屋敷を掌握しようと藻掻いていたのだ。
ふと鏡に、ウィルのほうに歩いてくる赤毛の女の姿が映っていることに気がついた。
(おっ……)
赤毛のジュディスが、いつものように強気に赤い眉を引き締め、口許をにいっと軽く曲げて大股歩きでこちらにやってきたのだ。
さっそくリッタは、近づいてくる第一洗濯女中に怯えていた。
そして、みなが固唾を吞んで見守る注目のご対面である。
「すまない。昨日は言い過ぎた。詫びるよ」
リッタの前に立ったジュディスがそう口にしたのだ。
ざわざわとした戸惑いの声があちこちから聞こえてくる。
リッタもジュディスも、なんだかすっきりとした表情にみえた。心なしか昨日よりも綺麗に見える。明らかに肌はつるつるとしている。
もしかすると、二人の長年にわたる性的な欲求不満が昨日解消されたおかげかもしれない。
赤毛の大女は少年の方に顔を向けると「これで十分ですかね?」という感じの、意向を伺うような目線を寄越してきた。
だが、ウィルがまだ足りないとばかりに首を振る。
すると、なんと――ジュディスがリッタに深々と頭を下げたのだ。
これにはホールも仰天した。
あの気の強いジュディスがここまでするなんて、一体どういう風の吹き回しだろう――?
そんな女中たちの疑問には、すぐに答えが与えられることになった。
ウィルは、リッタに深々と頭を下げるジュディスの後ろに立ち、うんうんと頷いた後、了承を与えるかのように――
屋敷で一番大きな尻を、ゆっくりと撫でまわしたのである。
みなの口があんぐりと広げられた。
そこは昨晩、ウィルの大量の精が放たれた場所であった。
あの後、無断で膣内に射精されて途方にくれていたジュディスは、腰を抜かして仰天したものだ。
いつのまにか、自分の子宮口に避妊具が張りついているのだから――!
いつ取り付けたかというと、もちろんジュディスが眠っている間だ。
いつ妊娠するかは僕が決めることだって言ったでしょ。ウィルは悪びれる様子もなくそう告げたのだ。
ウィルの言葉に、心底度肝を抜かれたとばかりに、ジュディスの唇が震えていた。
そんなジュディスの唇に、ウィルは、精を放ったばかりの男根と一緒にぬるりと言い含ませる。
今後は、ぼくのことを立てるんだよ?
すると、ジュディスは自身の下腹をひと撫でした。まるで身体の内側に宿る支配の存在を確かめるように――
先日、あれほどウィルに反抗的な態度をとったジュディスがなすすべもなくウィルに屈服しているのだ。
後ろから尻を撫でられながら、ジュディスは下唇を噛んで、少し色っぽく声を出すのを我慢していた。
蛮族の女は御しやすいと言われているが、こういう肉体労働系の女も本質は同じかもしれない。
上下関係をはっきりさせて、飴と鞭をきちんと使い分ければ、正しい支配に自分から身を委ねるのである。
ウィルは思う――
目の前の尻は屋敷のなかで一番大きな尻であろう。
だが、ウィルが撫でまわすのは、もっと大きな尻でないといけない。
はじめてトリスのなかに突き込んだときのような巨人感が沸き上がってくる。
ホール全体の女の気配を感じる。急に視界が開けたかのようだ。
ジュディスの尻の谷間に指を這わせながら、ホールの女中たちを睨め回す。
そうすると、自分のことのように、ぶるっと肩を震わせる女中もいた。
女中たちの感情の糸を一本一本自分の身体に手繰り寄せるのだ――
昨日の昼以降に、女中たちのウィルに向けていた一番目立つ感情は、年若い屋敷の令息に対する侮りと同情である。
いま、それが急速に裏返っていく。驚きを経由して畏怖へと――
もうこの少年に、物申せる屋敷の女は女中長くらいであろう。
そのトリスが、ウィルのほう目がけて、滑るように進み出てきたのだ。
もしかすると、なかには、ジュディスの尻を触るという紳士にあるまじき行為をしたウィルを叱り飛ばすのではと予感した女中もいたかもしれない。
だが、途中で首を傾げることになった。
動いているときのトリスは、意外に外見の表情が分かりやすい。
不満を示すときはカツカツと肩を怒らせて歩くし、女中たちの働きぶりに満足の意を示しているときは静かに歩く。
バレエに身を投じていたせいか、足運び一つ、手の指の仕草一つで、周囲にちょっとしたメッセージを伝える技に長けているのである。
それが、自身の鉄面皮を補うためか、それともその特技があったからこそ、顔の表情筋を使うのを怠けるようになったのかは分からない。
いまのトリスはというと――妙に優雅な歩き方なのである。
まず肩のラインが下がっている。これは首筋を美しく見せるためのバレエの技術の一つである。
そして若干、つま先が外側を向く外股歩きをしている。
脚のラインはまっすぐ伸びており、不格好ながに股とは全く違う。
こうすることにより関節の可動域が広がるメリットがあるのだ。
もし、ウィルが同じ歩きかたを真似をしたところで、三歩と歩かないうちに転んでしまうだろう。
これは、バレリーナが舞台の中央まで歩みよるときに見かけるような歩き方なのだ。
だから、自然とトリスのほうに視線が集まった。
何か話すことがあるのだろう。トリスは、優雅にジュディスの横へと尻を並べたのだ。
「みなさん。マルク家の予算カットについて耳にしていると思います――」
女中たちの肩が一斉にびくっとそばだてられる。
「当初は屋敷の十五人から二十人の女中を解雇する予定でした」
女中たちがひっと息を呑む。
噂にはなっていただろうが、そこまでとは思ってもみなかったのかもしれない。
マルク家には四十人の女中がいて、その半分近くを解雇すると言っているのだから。
「――どうやら、解雇せずとも調整がつきそうです」
おおっと安堵の歓声が上がりかけるのを、トリスは手のひらを掲げて差し止める。
今朝、ギュンガスからそれを知らされたのだが、内覧会の開催を公示したところ、一週間も立たないうちに、すでに三十人を超える中流階級より応募があったという。最終的には百人を超えるのではないかと予想している。
しかも参加費は一万ドラクマを取っているのに関わらずだ。
これは、ギュンガスが相当にうまくやったということと、平民の年収ほどの金額を即座に支払える中産階級がいかに多いかということを示していた。
もちろん経費というものがあるから、これら全てがマルク家の収入になるわけではないが、一筋の光明が差し込んだのだ。
「ただし――」
ホールは息もできずにトリスの次の言葉を待っている。
「屋敷の皆さまには、事態が沈静化するまでの半年の間、二割の給与カットを飲んでもらいます」
ホール全体の息がうっと詰まる。
使用人たちは、お互いに視線を交わし合って、どう反応しようか迷っているように思えた。
これは検討に検討を重ねた判断である。
二割カットしておけば、なんとかやりくりできるだろうと目星をつけたのだ。
もちろん給与の二割カットなど飲みたくはないが、解雇されるのはもっと嫌だろう。
そこで、トリスがちらっとウィルのほうを振り返った。
「リッタはこのところミスがあまりに酷かったからね。給料半額にするのを飲んでもらったよ」
少年がそう言うと、驚きの声が会場に渦巻く。
給料半額というとあまりにも酷いように聞こえるかもしれないが、この辺境領の屋敷には貴族の来客が滅多になくウィル一人のために毎日食事を作っている状況では、その程度にしか払えないのであった。
問題はリッタはそれで納得してくれるかどうかだが――
ウィルを見つめるこの料理人の瞳は、そんなことよりも自分の尻も触ってくれと訴えかけてくるようである。丁重に無視させていただいた。
とにかく、これで流れは決まった。
マルク領の屋敷は、二割カットでも十分使用人の応募が集まるくらいの賃金水準にある。
諦めたように、ぱちぱちと拍手が零れはじめた。
そこで、再び、ちらっとトリスがウィルのほうを振り返った。
だが、今度はウィルはぶるぶると首を振った。
これ以上はやりすぎである。
「士気に関わりますので、予算の面で食事の質には配慮しましょう。では、みなさま、ご協力をお願いします」
トリスは、膝を軽く曲げて優雅にバレエのおじぎをしていた。
今日のトリスは芝居っ気たっぷりだ。
それは何かの開演を告げるかのようであった。
トリスは催促するように、再びウィルを振り返った。
ウィルは、その女中長の表情に、ぎょっとする。いつぞや土下座してみせたときのような、妖艶に勝負をかける女の形相をしていたからである。
寝物語に、冗談でそうしたいと言ったことはあるが、それはたしか伯爵家を継いだときの話である。
だが、こんな千載一遇の機会をトリスが逃すはずもなかった――
(ああ! もう――!)
ウィルが手を伸ばす。
はっと息を呑む音が聞こえる。
今度こそ本当に、会場の空気が止まる――
ウィルがトリスの尻を撫でたのだ。
長身の背はそれを泰然と受け止めている。女の唇は笑みを深めており、すぐ後ろから見上げるウィルだけが気がつく程度にふるふると微かに震えたのであった。
ウィルは、あっけに取られる使用人を尻目に、女にしては高い位置にある形の良い臀部をゆっくりと撫でまわす。
再び、ちらっと鏡を見やると、そこには、極上の女の尻を撫でまわしている、青年というには背の低い、少し猫背気味になった少年の姿があった。
少年は、自分が気持ち猫背になっていることに気がついた。
(ああ……こんな背を丸めた主人に仕えるのでは、使用人たちも浮かばれないな)
ウィルはくっと背筋を伸ばし、顔をおこし、顎をひいた。
すると、はじめて男の顔をみるかのように、女中たちは、はっと息を呑んだ。
少年は男の貌をしていた。
ウィルはなんとなく、かつて見た草原の狼を思い出していた。
――偉大な獣は、丘の上で周囲を睥睨し、空に向かって背を反らし、天地の狭間で遠吠えをあげる。
「おお」
ソフィアが呟いた。
ウィルは青眼にホールの中央を見据える。
いままで、幼いころにみた原風景――草原と屋敷とは、全く別の世界だと感じていた。
だが、少年は屋敷のなかにいるにも関わらず、まるで広い大地を駆け抜けているような疾走感を胸に抱いていた。
「わたしたちの主人は素晴らしい」
ギュンガスが気障ったらしく拍手をはじめたのを見て、ようやくウィルは男がそこにいたことを思い出した。
それを皮切りに、止まっていた空気が流れはじめた。みな拍手に追随する。
ウィルの口許には、泰然とした柔らかい笑みがたたえられている。
その実、内心は心底困惑していた。
勝手に舞台に上がり込んで、自分の配役をきっちりと果たすギュンガスが鬱陶しくて仕方がない。
だが舞台のうえに立つことを自覚した少年には、もう困惑している様子を見せることは許されない。
女の尻は妙に体温が高い気がする。
やがて、手を載せていたトリスの腰がぶるりと震えた。
はらはらする。
後ろからだと、トリスがホールの使用人にどんな表情を見せているのか分からないのだから。
「これまで以上にご主人さまのお役に立てるよう心を砕きなさい。そうすればご主人さまはきっと、あなたがたをクビにしたりはしません」
女はよりによって自身の尻を撫でられているときに、主人の役に立て、心を砕けと口にしたのだ――
そして長身の女中長は、少し横に俯き、少年にしか聞こえない声でぼそりと呟いた。
「ここまで来るのに、もう何年か、かかると思っていました」
「……というかね。伯爵の耳に入るか、正直不安だよ……」
そう呟くウィルに、
「あら? 農場の管理はもう、わたしたちが引き継いでしまったんですよ?」
それは衆人環視のもとで行なう寝物語のようなくすくすとした囁きであった。
「専門の人間はあとで雇うとして、無理した甲斐がありました」
トリスは、このところの激務が報われたと言わんばかりである。
農地の管理――たしかにそれは伯爵家の経営の根幹である。
「無茶な予算カットをしたことで、王都の別邸のほうは、使用人の忠誠も揺らぎ始めています。領民も、領地に住むご主人さまの顔しか覚えていないでしょう。貴族家の面子をかけた内覧会もこの後、控えています。一体、だれがどうやってご主人さまの頭を押さえつけるというのですか」
トリスは穏やかな口調でそう囁いたのだ。
そのとき、マルク家を象徴する双頭の馬のタペストリーの下で、思わずという感じで、銀髪の少女が口にした言葉がある。
「八脚馬……」
北西の地に伝わる神話の名馬の名前で、ちょうど馬二頭分――八本の脚をもつ馬は、神を背に乗せて、昼夜を問わず天地の狭間を駆け抜けるという。
もしかすると銀狼族にも同じ伝承があるのかもしれない。
ウィルは丘の上にたつかのように、ゆっくりとホールを見回した。
すると女中たちは、いままで気安く踏みしめていた地面が、巨大な獣の背であったのを、はじめて知ったかのように、ウィルのほうを仰ぎ見ていたのだ。
ある女中はぽうっと頰を紅潮させ、またある女中は運命を受け入れるように自分の身体を抱きしめていた。
どこに連れて行かれようと、女中はこの獣のお世話をしていくしかない。
女中とは権力に寄り添う仕事なのだから――
第二十二話「幕開け」へのコメント:
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