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第十三話「犬と狼」
午後も過ぎ夕方にさしかかるころ、伯爵家の令息は階下の世界の一番広い空間――女中たちの食堂として使われることの多い使用人ホールを訪れていた。
大部屋の入り口付近で足を止め、なんとなく上を向くと、二階分はありそうな空間がぽっかりと頭上に拓けているのが見える。
天井には何百年もの年輪のありそうな大木が梁として何本も橋渡しされており、それらは煙で燻された黒炭色をしていた。
(ぼく、使用人ホールって好きだなあ……)
この場所にはなにか懐かしさのようなものを感じてしまう。
それもそのはず、屋敷がいまのように増改築されて領地の屋敷としての威容を整える前の荘園領主の館であった時代、ここは危険な辺境を開拓する領主とその家臣団がともに生活していた大ホールであったという。
見下ろす足元の床材はところどころ窪んでいたり張り替えられていたりするし、壁には家具が置かれていたのか色違いになっている場所もある。木製の分厚いテーブルには矢傷のようなものまで残されていた。
当時は、この大ホール以外には調理場と礼拝堂くらいしか主だった部屋がなかったようで主人の使う大きなベッドもここに置かれており、天蓋は単なる装飾品ではなく、天井から降ってくる煤を被らないための実用品であった。
かつてベッドの置かれていたあたりに視線を向けると、
(あ……)
窓から差し込む陽の光に照らされ眩しく輝く銀髪が見えた。
部屋の奥に置かれた木製の長テーブルの端で、黒い女中服のお仕着せに身を包み、ぴんと背筋を伸ばして座るソフィアがなにかを口元に運んでいる。
「あれ、いまごろ食事?」
ウィルは食堂の入り口からそう声をかけた。
「うむ、特別に用意してもらっている」
ソフィアはすぐに視線を手元に戻す。
木のテーブルの上には、赤いシチューが入った白いお椀が置かれ、その横の白いレースのナプキンの上には十枚くらいの薄切りの食パンらしきものが積まれていた。
よほど腹が減っているのか、手につかんでいた白いロール状の塊をほんの二、三口でぺろりと頰張ってしまう。
「すごい食欲だね」
ウィルはきいきい鳴る食堂の木の床を踏みながら近づき、長机を挟んだソフィアの対面に腰を掛けた。この間に、食パンが二枚減っている。
「ああ。なんだか猛烈にお腹が空いてな。ひとり間食をとらせてもらっているところだ」
少女はいそいそと次に食べるパンの準備にとりかかる。
シチューはほぐした鶏肉をトマトで煮詰めたものらしい――使用人たちの賄い飯だろう。スプーンでよそい、薄切りの食パンの上に塗りつけて丸めて出来上がりだ。
それはウィルもお気に入りで、夜中に猛烈に腹が空いたときに、赤毛の幼なじみマイヤに作ってもらった覚えがある。
突然起こされた赤毛の少女はさも不機嫌そうに『夜這いかと思った』と口にして、皿をどんと置いてきたものだ。
酸味のある美味しそうな匂いが漂ってくる。
ウィルが軽く鼻をひくつかせると、
「……こ、これはわたしがもらったものだ」
銀髪の少女は、両手で皿を抱える仕草をしてみせた。
「取らないって」
夕食前でお腹が空いていたせいもあって、物欲しげな視線で見つめてしまったらしい。
「簡単な味付けなのに美味いよね? 調理女中の腕がいいんだ」
銀髪の少女はこくこくと素直に頷いた。
一般に、料理人が主人や客人のための食事を作り、調理女中は料理人を手伝い、そして使用人のための賄い飯を作る。
調理女中が手を抜くと屋敷の使用人たちの空気は驚くほど険悪なものになるのだが、マイヤが担当するようになってからは、ほとんどだれからも苦情が出なくなった。
「あれ? もうなくなってる! 食べるの、早っ!」
ウィルが次に視線を落としたときに、少女は空っぽになった皿を哀しそうに見つめていたのだ。
「おい。新入り。それで飯足りるか?」
そのとき当の調理女中のマイヤが、こんがり焼き色のついた細長いブレッドを小脇に挟み、牛乳とヨーグルトの瓶をもって使用人ホールにやってきた。
「お、ウィルもいたか」
小柄な少女は屋敷の主筋を気安く呼び捨てにして、のしのしと軽快な足取りで近づいてくる。
(ん?)
いつもと少しだけマイヤの髪型が違う。
赤毛の髪の右側を短い三つ編みにして垂らしていた。それがとても似合っているように思う。
「へへ。追加だ」
赤毛のマイヤが、パンとミルク、ヨーグルトをテーブルの上に置くと、銀髪のソフィアは琥珀色の瞳を輝かせたのだ。
「おお……ありがとう、マイヤ。わたしは大食いなんだ」
赤毛の調理女中は、ウィルの隣の背もたれのない椅子に腰掛ける。
「へへ。いいってことよ。リッタのやつ、今日はなんか、ぽーっとしててよ。かっぱらってくるの簡単だったぜ」
この二人は気が合うようであった。
いつの間に親しくなったのだろうと思っていると、マイヤは座ったままくるりとこちらに身体を向け、片膝を立てたのだ。
黒いスカートと簡素な飾り衣装のついたペチコートがめくり上げられる。黒地の長靴下で包まれたふくらはぎが露わになり、その奥の白い布地が一瞬ちらりと見えた。
「スカートのなか見えてるよ」
「へ、サービスだ。見せてんだよ」
少女は手でスカートの股の部分を押さえながら、ウィルの肩にぐりぐりと赤毛の頭を押しつけてくる。
なんだか懐かしい。催促されたかのようにウィルは、ほんの少しだけ湿ったマイヤの赤い髪を優しく撫でてやった。
水浴びでもしてきたのだろうか。少女の赤毛のうなじから、初々しい蓮っ葉さが香ってくる。
「その髪型、よく似合ってるよ」
「へへ! ま、まあ、髪型なんざどうだっていいんだけどよォ」
少女の白い頰がひくひくと緩む。嬉しいときにする幼なじみの仕草であった。
「マイヤはちゃんと、屋敷の子たちの面倒を見てあげてるから、偉いよね」
少女は言葉遣いこそ無遠慮だが、輪に溶け込めない新入りの女中に積極的に話しかけたりと、なにかと世話好きなところがある。
「なら、おまえの面倒も見てやるよ」
そう言い放ち、ひょいっと腰を上げると、椅子に座るウィルの両足の間にその小さな尻を押しつけてきた。
(うおっ……)
股間の先に、同世代の少女の尻の谷間を感じる。
それに声をあげる間もなく、マイヤはウィルの右手をつかむと、自分のエプロンの脇の隙間に差し入れてきた。
黒地の女中服越しに感じる、うっすらとした胸のふくらみの感触。同時に指の先に、ドクドクと鳴る少女の激しい心臓の鼓動を感じていた。
マイヤは勝負に出ている。
くりくりとした青い瞳がウィルを見上げており、はったりをかますときの目の表情をしていた。
ウィルのほうは意外に冷静だった。
なにせ今日はすでに、女中長トリス・客間女中フローラ・洗濯女中ブリタニーの胸を触っているのだから。
マイヤの淡い胸のふくらみについては、健気さを愛でる気分である。指を立てるとすぐに胸板にあたった。
(……それでも思ったよりはあるんだ)
同じくらいかと思っていたが、ソフィアよりわずかに大きい。触れて確かめてそれが分かった。
少女自身の瑞々しさも相まってか、このささやかさが妙に艶めかしい。
青い果実を本格的に味わおうと、もぞもぞと少年が指の腹でふくらみを追いかけはじめたとき、はっと少女は口を開けた。
青い瞳が驚愕に揺れている。
ウィルが驚かないことにショックを受けているようであった。
「な、なあ。ウィルはもうソフィアを抱いたのか……?」
よりによってマイヤは、目の前でパンを頰張っているソフィアを指さしたのだ。
「ぶっ。ごほっ、ごほっ…………」
喉を詰まらせ、銀髪の少女はドンドンと薄い胸板を叩きはじめる。
「う、ううん、まだ。ソフィアは身持ちが堅くてね」
ウィルは苦笑を浮かべる。
銀髪の少女は牛乳をごくんと飲み込んで、深い息を吐いたあと、
「わたしは、まだ清らかな身でいたいんだ」
自分に話題が振られるのを避けるように、いそいそと食事を再開した。
その返答に目を輝かせたのがマイヤである。
「へ! お付きの女ひとり落とせないなんて、だらしねえな! か、代わりにオレが相手してやるよ!」
あまりに直截な言葉に、どうしたものかとウィルが返事に困っていると、赤毛の幼なじみはすっと目を伏せ、
「………な、なあ。オレじゃ、駄目なのか……? ちょっとはチャンスがあるかと思ったんだけどよ。今朝、オレの尻を触ったよな。それとも興味もないのにお情けで尻を触ってくれたのか?」
(いや、お情けって……)
「おまえ、寄宿舎から戻ってきてからオレにそっけなかったもんな……」
そう声を詰まらせながら訊いてきたのだ。
(そっけなくしたわけじゃないよ……)
久しぶりに再会した幼なじみの友人に女を感じるようになって、どう接してよいか分からなくなったのだ。
見下ろす青い瞳は少し湿っている。かなりの勇気を振り絞ったアプローチだったらしい。
いまさら触ったのがトリスだと言い出せない。
少女の淡い胸の上に指を這わせながら、女中長の言った言葉を思い出していた。
『女とは深く入り組んだ何重もの堀をもつ城です。征服するには外堀も内堀もすべて埋めてしまえばよろしい』
孤児院に捨てられ、マルク家に拾われた赤毛の女中のことは、昔からよく知っている。
少女が大切にしているものは、頭の片隅に残る孤児院の思い出と、マルク家で育った思い出、屋敷での仕事やほかの女中たちとの関係、そして何よりウィルとの繫がりであろう。
一方的に独占して自分に縛りつけてしまっても、なんの問題も起きない少女であった。
問われるのはウィルにその覚悟があるかだけ。一番古い友人を自分の女にする決断を迫られている。
女中長はどこまで計算して、この少女の尻を触ったのだろうか。
「マイヤ、たぶんぼくは、どこかの令嬢と政略結婚をすると思うよ?」
悩んだ末に、率直に考えを伝えることにした。
結婚相手は父親のマルク伯爵がある日突然決めてくるであろう。少年は漠然とそう思っていた。貴族の婚姻とはそういうものなのだ。
するとマイヤはちっと舌打ちをして、いらいらと赤毛の眉を顰める。
「そりゃ分かってるさ。ウィルはお貴族さまなんだから。だけど男なんだからヤれる女がいないと溜まるだろ? オレの尻まで触るくらいなんだからよ。オレは一発やらしたからって面倒な女になるつもりはねえぜ」
そのくらい分かれよと言わんばかりであった。
「マイヤ。ぼくは面倒な男なんだ。つきあい長いから、ぼくの独占欲が強いことくらい知っているよね? 本当の本当にいいの?」
「ど、どういう意味だよ? ひゃ――」
少女の所有権を主張するように、黒地のお仕着せの上から淡い胸のふくらみを、ぎゅっと握ってみせる。
「痛ぇ」
(あ、強くしすぎちゃったかな)
マイヤはビクッと身を強張らせたあと、あわてて口を押さえた。
今度は青い芯をつぶさないように、優しく摘まむ。
「あぁ……ん」
そうすると自然に出てきたという感じで、少女は少し色っぽい声をあげた。
それはマイヤ自身も予想だにしない反応だったのか、はっと息を呑み、赤いうなじを震わせている。
二人の向かい側では、我関せずとばかりにソフィアが黙々と食事を続けていた。
「いったんぼくのものにしたら、二度と手放すつもりはないよ。ぼくだけのものにするからね」
少年の言葉に、幼なじみの少女はピクリと肩を揺らす。
柔らかく上体をねじってこちらを振り向くと、くりくりとした綺麗な青い瞳で、ウィルの顔をじっと見上げてきた。
(う……)
マイヤは、にへらと人の悪い笑みを浮かべはじめる。
「ははーん。つまりウィル、おまえはオレを自分の犬にしたいんだな。自分のそばに置いて何でも言うことを聞かせたいんだな?」
自身の内なる欲望をものの見事に言い当てられて、
「……ッ! 痛ってえ!」
「ご、ごめんよ」
ついマイヤの淡いふくらみを強めに抓りあげてしまった。
「……だ、駄目かな?」
ウィルは、少し恨みがましい目で見上げてくる少女に、おそるおそる訊ねてみた。
なにせ相手は一番古い友人である。ウィルの身勝手な願望に、幼なじみは怒るだろうか、それとも泣くだろうか。
赤毛の少女は吐息のかかる至近距離まで顔を寄せると、
「オレとおまえの仲だろうが。どうしてもっと早く言ってくれねえんだ!」
さも水臭いと言わんばかりの口ぶりで、ウィルの下唇をかぷっと嚙んでみせた。
「うっ」
甘い痛みが走った。
少女は唇を離した後も、ウィルの返事を待つように、じっと至近距離からウィルを見上げてくる。
「え? ということはマイヤは、ずっとぼくと一緒にいてくれるの?」
「おうよ」
赤毛の少女は腰を回転させ、ウィルの胴に腕を回してきた。上目遣いにウィルを見つめてくる。
「オレはおまえの犬だ。だいたい、犬が家出してどこに行くってんだよ」
そう言って、マイヤは少年の胸板に頰ずりをしてきた。
「でもな。犬を飼うにも責任が伴うんだ。毎日頭を撫でてやらないといけないし、散歩にも連れて行ってやらないといけない。歳をとって臭くなっても、世話を続けないといけないんだぞ」
歳をとってというくだりが妙に現実的である。赤毛の幼なじみがはじめたのは、ささやかな条件闘争であった。
「あ、うん」
かろうじてウィルは頷く。
「マイヤは歳を取ったら、ぼくの言うことを聞いてくれなくなったりするかな?」
「そりゃおまえ次第だ。おまえがおまえのままでいてくれるなら、キャンキャン夜泣きもしない。それは信用してくれ」
主人をおまえ呼ばわりする少女の外掘を埋めるのは、もう本人との共同作業であった。
「ほら。むかし屋敷で飼ってたペロのことを思い出してみろ。構ってくれるだけで尻尾が千切れそうになってただろ。おまえ最期まで優しかったもんな」
ペロは、昔からマルク家で飼われていた大型の番犬で、ウィルによく懐いていた。
歳を取るにつれ歯も抜けてしまい、番犬としての用を果たせなくなったとき、そのころまだ屋敷に住んでいた伯爵はもう捨ててしまえと命令したのだ。
だが、ウィルは屋敷の洗濯干し場や裏山で老犬を匿い続けた。伯爵に内緒で犬を飼っていることは、もはや屋敷の使用人のだれもが知っている公然の秘密であった。
やがて天寿を全うして死んだペロの墓を作っているウィルに、屋敷の使用人を代表してトリスが深々と頭を下げたのだ。
いまにして思えば屋敷の使用人たちは、老犬に自身の老後の姿を重ね合わせていたのかもしれない。
「――マイヤには一生そばにいてもらうよ」
「よっしゃ! たったいまからオレは生涯おまえの犬だ。オレを躾けてくれ。なんでも言うことを聞いてやるからな!」
赤毛の少女は畳みかけるように、一生の誓いを立ててしまった。
「マイヤ。本当に意味分かって言ってる?」
目の前の少女は一緒に育った幼なじみだ。それで本当に良いのか不安にもなる。
「ああ。だってそれって女版の従僕みたいなもんだろ。永久就職だな」
(あれ? あれれ?)
急にウィルは分からなくなってきた。
従僕とは主人のそばに行儀良く仕え、主人の命ずるどんな雑事にも応える男性使用人のことである。
主人が馬車に乗るならば、その名前のとおりその横を伴走する健脚のフットマンとなる。
マイヤの言うとおり、従僕は主人の犬のような存在と考えられなくもない。
(従僕かあ、向いているかもなあ)
この赤毛の幼なじみなら機転も利くし、波風を立てることもなく、必要なときに気がついたことをウィルに教えてくれるだろう。
実際問題、屋敷の女中を従僕という地位につけることはできないからソフィアと同じ側付き女中として近辺に置くのが妥当かもしれない。
ちらりとウィルは、マルク家に買われてきたソフィアの様子を窺う。
抱き合う少年少女をよそに、本来、主人ウィルの世話をするはずの銀髪の側付き女中は、マイヤに世話をされた食事を黙々と食べ続けていた。
いまもごくごくと美味しそうにヨーグルトを飲んだ後、「ぷはあ」と手の甲で唇を拭っている。気持ちは分からなくもない。マルク家の乳製品は酪農女中が手塩にかけたもので、質が高いと評判である。
「もうオレは、おまえ以外を主人にするつもりはないかんな。一生だ。絶対、そこは譲れない」
マイヤは断固としてそう主張する。
「あ、うん。えっと……、ぼくはマイヤを……、その、抱くつもりなんだよ?」
やや恐る恐る訊ねた。
幼なじみに対して気は引けるが、そこははっきりさせておかなくてはならない。
「はっ! 当然だろ。わざわざ女を自分の犬にするんだから性交も込みに決まってる。それって散歩みたいなもんだろ。重要。犬にとっちゃ死活問題だぜ」
少女はなにをいまさらと言わんばかりであった。
気がつけばペットの取り扱いの教則本を手渡され、同時に責任の重さを実感させられている気分である。
「この屋敷に来る前、院長先生がよく言ってたぜ。上の口も下の口もあんじょう食わしてくれる男をつかまえなさいって」
マイヤがいたのが教会系の孤児院であることを思い出し、少年は苦笑を浮かべた。だが孤児の少女に送る、これ以上適切な助言はないのかもしれない。
「さあオレを抱いてくれよ。新品だぞ。ぴちぴちの処女だぞ」
マイヤは身を投げ出さんばかりに、きつく抱きついてきた。
「おっとと……」
椅子ごとひっくり返るかと思ったが、少女の身体は思った以上に軽い。
その肩は華奢である。肉づきもまだ薄い。
さきほど思う存分身体をまさぐったフローラや、細身のブリタニーに比べても、発育の不十分さは明らかだが、青い果実の魅力というものがある。
目の前で食事をしているソフィアと同様に――
目尻の上がったツリ目がちの、ぱっちりと開いた大きな青い瞳。幼いときにトリスの目利きに適い屋敷に連れてこられただけあって、器量には十分恵まれている。
なによりもマイヤには、精一杯自分の足で自分の人生を生きようとする少女の逞しさが感じられる。そこに惹かれてしまうのだ。
(おまけに一番古い友人なんだよね……)
王立学院で貴族の子弟の知己を得たが、やはり一番身近な親友といえばマイヤになるであろう。
ウィルはごくりと唾を飲み込んだ。
昔からの友人を性のはけ口にすることに興奮を覚えていた。少女の肉体を、隅から隅まで思う存分蹂躙してみたいという気持ちを抑ることはできない。
赤毛の少女は、ウィルの支配を喜んで受け入れると言ってくれている。あとは男を迎え入れたことのない処女地に一歩足を踏み出すだけ――
だが、ここでウィルはマイヤの肩に両手を置いてそっと距離をとったのだ。
「言いにくいんだけど……マイヤ、トリスに避妊具をもらってこないといけない」
「なんだと……トリスは?」
「外出中。たしか薬の原材料の買い出しに行っていると思う」
「リサ・サリは?」
「一緒」
簡単な用事なら蒸留室女中が肩代わりすることができるだろうが、薬の買い付けのときにトリスはあの小柄な双子姉妹を付き添わせるようである。
マイヤはまるで目の前に空のトレイを置かれた犬のように、悲しげに目を丸めた。
「ちくしょう。最初の主人の命令は、『待て』かよ! ぐぐ……」
少し癖のある髪を左右に振り、白い歯を剥き出しにして、悔しげに唸ってみせた。
だが、突然ぴたりと止まり、
「ま、しゃーない。それに。もうオレはウィルの物だし。ひゃっほう!」
そうあっけらかんと言った。
そして、足元で微睡む犬のように、ごろんと再び丸めた背中をウィルに預けた。
「昔、並んで落書きをしていた仲なのに、まさか、こうなるとは予想もしていなかったな」
「そうか? オレはずっとこうなればいいなと思っていたぞ。相合い傘ばっか彫ってたし。おまえは、なんかヘタクソな動物の絵ばっかり彫ってたけどな――」
赤毛の少女はしみじみとそう言ったあと、赤い光の差し込みはじめた窓の外を見やり、血相を変えた。
「あ、やべ! もう行くわ。白状すると、尻触られた直後からおまえのことで頭がいっぱいでさ、仕事さぼりまくってたんだわ」
少女は身体を離し、立ち上がる。ソフィアが綺麗にさらった食器を手際よく片手で積み上げる。
赤毛の調理女中は顔を赤くしたまま空いた手を振って、食堂から退出していった。
‡
マイヤが去った後も、ソフィアは食事の余韻を楽しむように白いエプロンの胃の辺りを満足気に手でさすっていた。
瑣事などどうでもいいと言わんばかりの穏やかさで、そのまま眠ってしまいかねない。
「あー、こほん」
ウィルは思い切って訊ねてみることにした。
「ソフィア。嫌だった?」
「なにがだ?」
銀髪の少女は不思議そうに眉の片方をあげた。
「あ、いや。目の前でマイヤと、その……抱きあっていたから、ね……」
後ろめたくなって、しどろもどろになる。
「わたしの故郷でも力の強い男はより広い草原を支配し、より多くの羊を所有している。そういうものだろう?」
窓から入る光を気持ち良さそうに顔に受け、銀髪が柔らかく輝くソフィアは、なんだか遅い日向ぼっこをしている獣を思わせた。
マイヤが飼われた犬なら、ソフィアは野生の狼だろう。
(――あ!)
ふいにウィルは、むかし自分が漆喰の壁に彫っていた動物がなんであったかを思い出したのだ。
稚拙すぎてだれも判別できなかった四つ足の生き物。
記憶のなかの落書きが急に血肉を得て、生き生きと躍動しはじめる。
まだ育児室で、トリスと一緒のベッドで寝起きしていた幼いころのウィルは、いまよりずっとやんちゃであった。
物心つくにつれ次第に矯正されていったが、あのトリスですら思慮分別のない無鉄砲ぶりに手を焼くほどであったとか。
それはウィルの心象風景である――
大きな羊の背に器用に跨がった幼子の、甲高い笑い声が大空へと抜けていく。
今よりもさらにずっと手足は短いが、視線はずっと上方に据えられていた。
マルク領の北には広大な草原が広がっている。
遊牧民にとっては命の糧であろうが、マルク家にとっては利用価値の低い、だれのものかも曖昧な草原である。
夏の草原は素晴らしい――見渡す限りどこまでも広がる緑の絨毯。それを包む空はどこまでも蒼く澄んでいる。
涼風が大地をねぶりあげ、天地と我が身が一体となる。
だが、幼子の指の力では羊の毛をつかみきれない。脱脂前の羊の毛はすべるものなのだ。
羊の背から転がり落ち、無邪気に笑い転げながら、柔らかい草地の丘の上に手足を投げ出した。そのまま高く澄みきった天空と陽の匂いのする大地に身を委ねる。
ふと次にウィルが瞳をあけたとき――見上げる視界を、ぬっと大きな生き物の姿が埋めていた。
ひと嚙みで大人の頭蓋骨でも砕きそうな、堂々たる体軀の草原の狼である。大きな狼は、爛々と輝く琥珀色の瞳で幼子の顔を覗き込んでいた。
恐れを知らない幼いウィルは、この綺麗な瞳の生き物に惹かれ、懐に入っていた干し肉を差し出す。それは飼っていた屋敷の番犬のための餌である。
ウィルはこの綺麗な獣と友達になりたかった。
だが、施しは受けないとばかりに、狼はウィルの顔をひと舐めしたのだ。
偉大な獣は丘の上で周囲を睥睨し、天に向かって背をそらし、天地の狭間で遠吠えをあげる。びりびりと幼児の鼓膜を揺るがし、臓腑から背筋へと威圧が地響きのように突き抜ける。
やがてこの草原の狼は逞しい四肢を駆って、一陣の風のように走り去ったのだ。
(あのあと、ものすごく怒られたんだけどね。羊は一頭帰ってこなかったし……)
ふうっと溜息をついて、まどろむソフィアのほうに視線を戻す。
なぜ奴隷市場で一目見てソフィアに惹かれたのか、理由を思い出した気がした。少年は昔から誇り高い生き物が大好きなのだ。
どうしても手から離したくないと望むなら、銀狼族の娘のことをよく知らなければならないだろう――犬は、狼を飼い慣らして家畜化したものと聞く。
改めてウィルは訊ねてみることにした。
「神子や神巫というのは、ぼくたちに馴染みがないんだけど、どういう立場だったの?」
すると、遊牧民特有の無頓着さと独特な生真面目さを併せ持つ少女は、大事な話とばかりに居住まいを正す。
「神巫とは草原の神から授かった預言により道を指し示す巫のことで、神子とはその実行役となって一族を束ねる子を意味する」
目の前の銀髪の少女の腕や肩は折れそうに華奢である。
重責を負うにはあまりに若すぎる気がして、
「きみたち姉妹は銀狼族の指導者だったの?」
そう尋ねてみると、溜息が返ってきた。
「そのあたりの事情は込み入っていてな。神巫のマリエルが村の長のはずだが、歳若いことを理由に一族の意思決定に関わることが許されなかった。神子のわたしも、一族の男たちに指示できるのは長老たちの許可した場合に限られていた」
「ん? 村の長老たちとなんかあったの? 協力してくれなかったとか……?」
「協力してくれなかったとか、そういう生やさしい話ではない!」
ソフィアは激昂して、右の手のひらをテーブルクロスの上に、ばんと打ち付ける。
その途端に木製のテーブルは大きく撓み、びしびしっと大きな亀裂音がした。
「うわあ……」
ウィルは思わずテーブルクロスをめくり上げる。
(うひゃあ。相変わらず凄いな……)
十センチくらいの分厚い一枚板にヒビが入っている。
華奢な少女が座ったまま平手打ちして、破壊できるようなものではない。
「くっ、し、痺れる……つい興奮して……」
赤くなった手のひらを反対の手で押さえながら、
「も、もうじき治まるから、ちょ、ちょっと待て……」
銀狼族の娘は涙目になっていた。
びりびりと痛そうだが、幸い手当が必要ないようなのでウィルも安心した。いくら力は強くても、肉体的な強度まで備わっているわけではないらしい。
(自分の力の強さも忘れて強く叩きすぎてしまうなんて、ソフィアって案外――)
少女がウィルの顔を指さした。
「いま、わたしのことを愚か者だと思ったなァ!?」
「い、いやあ……」
どう反応してよいか分からず、ウィルは笑って誤魔化すことにした。
「こほん、話を戻そう。長老たちは、最後の最後まで、自分たちの権威を守ることしか考えていなかった。われらは草原の狼として、何千年も縄張りを守り続けてきたわけだからな」
(何千年――)
ウィルはそのスケールの大きさに目を見開いた。
マルク家は王国のなかでも特に古い貴族家の一つであるが、さすがに何千年もの歴史は持ちあわせていない。
「負けるなんて、微塵も思っていなかったに違いない。どれほど状況が悪化しようと最後の最後まで足を引っ張り続けた」
ソフィアは苦虫を嚙み潰している。どうやら銀狼族の村にもいろいろと事情があるらしかった。
「あるとき神巫が神託を授かった――長老たちを皆殺しにしなければ村を守れないとな」
急に話が冷える。
ソフィアの琥珀色の瞳は宝石のように無機質に輝いていた。
ウィルの背筋に寒気が走る。
「……や、やったの?」
「――それができなかったから、村を失い、いまこうしている」
ソフィアはふうっと長めの溜息をついて、首を左右に振った。
正直、ソフィアが思いとどまってくれたことに、ほっとしていた。
「兵士は何人くらいいたの?」
「二百人だな」
王国の軍隊を何度も退けたにしては、あまりに数が少ない。
ウィルは首を傾げ、
「もしかして騎射ができる?」
その可能性を思いついた。
「うむ」
ソフィアは、さも当然といった感じで頷いた。
遊牧民は、塀も柵もない拓けた荒野で外敵から家畜を守らねばならない。速い足と遠くまで届く攻撃手段が必要になる。そのため馬上から弓を放つことが生活の一部になっているのだろう。
(その技術って農耕民からしたら脅威なんだよね……)
古代、遥か東の大国において、二千の歩兵が十七騎の騎馬兵を襲撃して、逆に壊走した記録が残っている。しかも、この十七騎は精鋭というよりは、本国に帰還するただの連絡兵であったとか。
いくら追っても逃げ水のように遥か地平線の彼方まで去って行っていくし、追い疲れて足が止まっている此方まで戻ってきて射かけられては堪らない。
銀狼族のたった二百の騎馬兵も、北の荒野では無類の強さを誇っていたに違いない。おまけに怪力無双の神子に、預言の神巫までそろっている。
ウィルは、銀髪の少女の琥珀色の瞳を覗き込んだ。
「負けたのは新式の施条銃のせい?」
ウィルの質問に、ソフィアはぐっと下唇を嚙んで、ひとしきり悔しげに唸った後、意外に素直に首を縦に振った。
「そうだな。弓よりも遠くから狙われるようになって、いままでの奇襲攻撃がまるで通じなくなった。まともに戦えたのは、銃よりも強い弓をひけるわたしくらいだったな」
新式の施条銃には、銃身内に螺旋状の溝が彫られている。それが草原を逃げる騎兵を射落とせるだけの精度を与えたようだ。
「一撃離脱で被害のほうが大きいなら、少数の手勢ではもうどうにもならない」
頰杖をつき、少女はふうっと長い溜息をついた。
「預言と言っても、必ず勝てる方法を教えてくれるわけではないんだね」
すると銀髪の少女は、悩ましげに銀色の眉を寄せる。
「人は、天の視点でものを考えるようにできていないからな」
銀狼族の神子が『天』と口にした瞬間、ウィルの脳裏に、あの柔らかそうな緑の絨毯の上に広がる、どこまでも澄んだ蒼穹が思い浮かぶ。
たしかにあのとき自分も、なにか大いなる存在に繫がっていたかもしれない。
「草原を駆けるわれらにとって、預言は曖昧な部分が多く、とても不親切だ。だが後から振り返ると、百発百中で当たっていることに気付く。だから草原の空を舞う鷹のように、あれやこれやと神託を探らなければならない」
神与の力とはそういったものだろうとウィルには理解できた。
人の思うままに操ることができるなら、それは神から授かった奇跡などではなく、新式の銃のような人の技術であろう。
「なるほど」
うんうんと納得しているウィルを不思議そうに見つめながら、銀狼族の神子は話を続ける。
「昔はそれで十分だったのだ。行く先で嵐になるか戦になるか、それとも旱魃が起きるのか。せいぜいその程度のことが分かればなにも問題なかった」
人の数はどんどん増え、情報はますます過密になっていく。
時代は急速に変化しつつあった。
弓矢から、弾丸と火薬の時代へ――
個の英雄から、物量と兵站の時代へ――
だれしも時代の流れとは無縁ではいられない。
騎馬民族は草原の覇者たる地位から蹴り出され、一騎当千の神子も奴隷にまで身を堕とした。
「そういえばソフィアは、ぼくが奴隷市場に来ることを分かっていたよね?」
「ああ。神巫が預言していたからな」
「なんて預言されてたの?」
ウィルの質問に、ソフィアはなぜだかびくっと肩を震わせた。
「わ、分かった。教えてやる」
「……?」
銀髪の少女は天井を見上げて勿体をつけた。
「……鉄の檻に囚われて……とりあえず――主を定めるべし」
明らかに琥珀色の瞳が泳いでいた。
(は? とりあえず?)
古めかしい預言の文言のなかで、その言葉が不自然に浮いていた。
噓をつくのがあまりにも下手であろう。ウィルは寛大にも見逃してやることにした。
「……遠からず――破瓜を知らぬ身は神巫へと繫がらん」
「遠からず?」
それは聞き逃せない。
いつになるかが肝心なのだ。そのときに銀狼族の美少女はウィルに純潔を捧げてくれるのだから。
ソフィアはというと、心底困ったように銀色の眉を寄せていた。
「えっ、そんなにあやふやなの?」
「さきほども言ったが、預言というものは実に不親切だ。最善と思う行動を取るしかない」
琥珀色に輝く瞳が、探るようにじっとウィルに向けて細められていた。
「わたしは最善と信じてこの屋敷に身を寄せた。おまえが妹を探す手助けになることを期待しているぞ」
「うん、今後の段取りについては、今夜、話し合おう」
ウィルの言葉に、ソフィアは破顔して立ち上がると、
「そうか、それは良かった!」
腕を伸ばして少年の手をつかみ、ぶんぶんと上下に振ったのだ。
本当に嬉しそうだ。
重なった小さな手の下には、分厚い木のテーブルの割れ目が顔を覗かせている。
(熊に手を握られているようなものかも……)
ウィルは苦笑を浮かべる。
そこで話し合いが一段落したのか、ウィルはソフィアの肌を遠慮無くじろじろと眺めはじめた。
ウィルは、目の前で、午睡を楽しむように、窓から注ぐ陽の光を銀色の髪に受けていた、この毛並みのよい美しい獣に触りたくてしかたなかった。
たとえ平手打ち一つで分厚い木のテーブルを破壊するような少女であったとしても。
このあたり、いかにトリスに性格を矯正されようとも、三つ子の魂は百まで変わらない。
自分の命の危険よりも、好奇心や欲望のほうを優先させるきらいがある。
「まあ、とりあえず早く屋敷に慣れてよ」
「買われてきた身だ。自分の与えられた仕事は果たそう。――だが、おまえには、どうしても言っておかねばならんことがある」
ソフィアは真剣な表情でじっとウィルの顔を見つめてくる。
そのとき陽は地平線に沈みはじめていた。
夕日に背後から照らされて、ソフィアの銀髪が神々しく輝いている。
「え、なに?」
「一族の草原こそがわたしの故郷なのだ。わたしは妹を取り戻したあと、故郷に帰るつもりでいる」
銀狼族の少女の言葉に、屋敷の令息は目を瞬かせた。
ウィルは奴隷市場でソフィアをその人生ごと買ったつもりでいたが、そもそも考えてみると、この銀狼の神子は自力で奴隷の鎖を引きちぎってしまうことができるのだ。
「妹を取り戻したら、きみはぼくに抱かれるって言ったよね? まさか約束を破るつもり!?」
「約束は守る。おまえには抱かれてやる。だが、その後わたしは、長のマリエルとともに一族の草原を取り戻しに行く」
琥珀色に輝く瞳は、決して曲げない意志を伝えてくる。
猛獣の檻をも引き裂くソフィアなら、故郷を取り戻すことも可能かもしれない。そう思わせるものがあった。
「で、でも、処女でなくなったとき、きみは銀狼の神子としての力を失うことになるんだよ!? そう言っていたよね?」
「そのとおりだ。だが、草原の神から授かった力がなくとも、わたしはこの家から出て行く。草原の民の心を縛ることができるのは草原だけだ」
そうきっぱり口にするソフィアの背後の窓の向こうには、伯爵領から北に繋がる大草原の一端が見えた。
昔一度だけ間近に見た草原の狼が自分のもとを去っていく、そんな既視感を覚えてしまう。
「ソフィア。今晩ぼくの部屋に来て。――意味は分かるよね?」
「マイヤと寝るのではなかったのか?」
「マイヤともするけれど君ともする。ああ。もちろん。約束通り、君の処女はとっておいてあげる」
少年はそう宣言したのであった。
◇ 屋敷の女性一覧 ◇
女中長 1人 (トリス◎)
蒸留室女中 2人 (リサ・サリ)
洗濯女中 6人 (第一:ジュディス)
(第二:イグチナ・ブリタニー△・シャーミア)
(第三:アーニー・レミア)
料理人 1人 (リッタ)
調理女中 4人 (マイヤ△)
皿洗い女中 2人
酪農女中 3人
客間女中 1人 (フローラ△)
家政女中 12人
雑役女中 8人
側付き女中 1人 (ソフィア△)
計41人
お手つき 1人 (済み◎、途中△)
第十三話「犬と狼」へのコメント:
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