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第十話「客間女中」

(なんだってこんなところに……?)

 次にトリスが案内したのは、女中メイドたちの使う共同便所であった。

「申し訳ありません。このような場所にご案内してしまい。しばしここでお待ちを」

 ここに来るのはいつ以来であろうか。
 幼いころ便所まで付いて行って、女中たちに困った顔をされて以来、なるべく近づかないようにしていた。
 そっと室内をのぞき込むと、手洗い場で背を丸めた金髪の客間パーラー女中メイドの後ろ姿が見えた。
 客間女中には屋敷を訪れる客人の取り次ぎ係という役割があり、屋敷の表側に出る機会が多いこともあって、ほかの女中より服装が少し華やかだ。
 黒いスカートのすそからは白いレースのフリンジが顔を覗かせていた。脇には白い手袋を挟んでいる。お腹を押さえているようだ。細かいしゅう飾りのほどこされた白いエプロンが両肩をおおい包んでいる。
 金髪の後ろ髪を結い上げており、汗で湿ったうなじにはおくれ毛が張り付いていた。

「フローラ、具合はいかが?」

 トリスがそうたずねると、げっそりとした女の細い身体からだが振り向く。
 背はウィルと同じくらい。胸は大きすぎず小さすぎず、ほどよくふくらみ、腰まわりはやや細いかなと感じさせる――つまりとてもプロポーションが良い。
 フローラは、いかにも貞淑な乙女といった感じの、少しだけウェーブのかかった長い金髪に青い目の女性で、そのせいな美貌には、いつもおっとりとした人当たりの良い笑みがたたえられているイメージがある。
 だが、そのいつも愛想の良い曲線を描く金色の眉も、いまは苦しそうにゆがんでいた。

「……トリスさま。もうちょっとこうしていたら楽になると思います。お客さまですか? う……」

 フローラは色白の顔を青くして、ひどくつらそうに下腹のあたりをさすっている。

(どうしちゃったのかな……)

 顔の横から垂らした巻き毛がれ、ほつれた金髪が数筋、白い横顔に張りついている。

「いいえ。ウィル坊ちゃまにお茶出しを頼みたいのですけど、大丈夫かしら?」
(えっ、ぼくに?)

 急に名前が挙がって驚いた。
 接客はフローラの仕事だが、ウィルへのお茶出しは、トリスや直属の部下である蒸留室スティルルーム女中メイドが行うことも多い。
 何かを期待する視線を向ける金髪の女中に、

「蒸留室の子たちには、いま別な仕事をお願いしているの」

 トリスはそう告げた。

「はい。分かりました」

 フローラとしてはそう返事をするしかない。
 金髪の客間女中は苦しげに金色の細眉を寄せながら便所から出ると、刺繡飾りの華やかな白いエプロンで彩られた肩を丸め、重そうな足取りで茶葉のある蒸留室へ向かっていく。
 フローラの後ろ姿が見えなくなった頃合で女中長ハウスキーパーはウィルのほうに振り向いた。

「あなたたちは、どこかで時間を潰してらっしゃい――」

 すると、

「「はい。トリスさま」」
「うわ!」

 唱和するような声が後ろから聞こえ、少年は飛び上がった。
 一体いつからそこにいたのだろう。
 柱の陰に隠れていたウィルの、そのさらに背後に、年少の皿洗いスカラリー女中メイドを除けば屋敷で一番小柄な双子が気配を殺して立っていた。
 蒸留室女中のリサ・サリである。このどちらがどちらか見分けがつかないほどうりふたつな双子は、三年ほど前に屋敷に連れてこられた。遠い東方の出身で奴隷市場で売られていたという。つまり伯爵家の所有物である。
 耳が隠れる程度の黒髪のショートで、結構可愛かわいい顔をしているように思うのだが、前髪だけはもとが隠れるほど長く、目の表情がさっぱり読めない。前髪を上げたら見分けがつくのではと思うのだが、二人はそれだけはと首を振ってこばむのだ。
 仕方がないので、リサ・サリと呼びかけるようになった。
 ウィルのほうを向くと前髪の下の頬をわずかに赤く染め――東洋的なぐさなのだろうか、はにかみながら並んでおして、左右別々の方向に散って行った。

「二人そろってるの久しぶりに見た……」

 二人は、茶の管理や菓子作りなどを担当しており、蒸留室女中という名前のとおり、蒸留装置を使って香水を抽出したりもする。だが、同じ仕事をしているはずなのに、不思議と一緒に見かけることがない。

「あとで、あの双子にも会ってやってください」

 ウィルは少し首を傾げながらうなずいた。
 なにか用事があるのだろうか。

「それでフローラは大丈夫なの? 青い顔をしていたけれど」

 女中長がなぜフローラに頼んだのか分からないが、いまは少々タイミングが悪いように思う。

「あんまり大丈夫ではありませんね。こんな具合ですから」

 トリスは腰をかがめ、洗面台の近くにある膝くらいの高さのブリキの缶に指を伸ばす。
 缶にはところどころ赤茶色いさびがこびりついていた。ふたまみを持ち上げたとき、ぬちゃあっと音がした。
 げんな表情を浮かべながら近づいて覗き込むと、そこには赤黒いものの付着した大量の綿布が積み上がっているのが見えた。

「うっ」

 次の瞬間、ウィルは両手で鼻を押さえながら、思わず後ろによろける。

(く、くさッ。な、なにこの臭い?……)

 いままで嗅いだことのない猛烈な悪臭が、ウィルの鼻をついていた。ブルー乾酪チーズに腐った血でも混ぜたような……。
 さきほど調理場で胃袋を刺激されていたこともあり、そのギャップに本気で吐き気を覚え、よろめきながら便所の壁に身体をぶつけた。
 すると缶から覗く、一番上の布に張り付いた赤黒いゼリー状の塊が、グロテスクに揺れた気がする。
 そこでようやく、女性の使用済みの生理用品が山積みになっているのだと思い至った。一番上ということは、おそらくフローラの――
 ウィルはこれまで女中に対し、紅茶やお菓子、髪からただよかすかなかんきつ系の香り、おさまの匂いのするエプロンといった気持ちの良いイメージばかりを思い描いていた。
 生理現象なのだから仕方がないにしろ、女のべつの一面を見せつけられた格好である。
 奴隷市場の臭いも強烈だったが、あれはひらけた空間に臭いが拡散していくので、それなりに慣れるのだ。
 一方、生理用品の悪臭は、清潔なお屋敷の一角に凝縮しているせいか慣れそうにない。

「すみません。女の生理とはこういうものなんです。わたしたちは慣れていますが殿とのがたにはきつかったですね」

 ようやくトリスが蓋を閉めてくれた。

「女の生理の周期から、だいたい四人に一人は生理中ということになりますね。うちには四十人から女中がいますから十人は生理中ということです。十人も生理中の女がいれば、フローラのように、毎日必ずだれかは顔色を悪くしていることになります」

 しみじみ女性は大変だと、体調を崩しているフローラのことを心配するウィルに、トリスは人の悪い笑みを向けてきた。

「こうやって顔色が悪いときに、少し優しくしてあげれば、女なんてすぐに身体を許しますよ。フローラが部屋に来たら、せいぜい優しくしてあげてください」

 ウィルは、同じ女であるトリスが、生理の周期まで利用して、女の弱みにつけこむ手段を男に教えるというのはアリなんだろうかと、ややぼうぜんとした。


   ‡


 自室に戻りソファーに腰をかけて待っていると、やがて扉がノックされた。
 開かれたドアの向こうに見える客間女中の服装は華やかで、黒いお仕着せの前をおおう白いエプロンの縁だけでなく、手袋までしゅう飾りで彩られている。

「お茶を持って参りました」

 白いポットとカップを載せた銀のトレイを持って、こちらに歩み寄ってくる今日のフローラの足取りは、どこかおぼつかない。自覚のない夢遊病者のように、黒いスカートの裾から覗く白いレースのフリンジが不安定に揺れていた。
 接客を担当する金髪の女中は、ふらつきながら低いテーブルの上にお盆を置くと、いつものように赤いじゅうたんに片膝を突く。黒地のスカートの裾から白い靴下が顔を覗かせ、上品な色香をかもし出していた。
 カップに注がれた紅茶の香りが、部屋の空気にいろどりを添える。

「ありがとう」

 ウィルの言葉に、金髪の客間女中は軽く微笑ほほえみかけてきた。
 だが、その頰は引きっている。金髪がほつれて数筋、ひたいに張りついていた。
 客間女中の襟元のリボン飾りは日によって色が違い、ウィルの目を楽しませてくれるのだが、いま汗を吸った白いリボンに締め付けられたきゃしゃな首回りは、いかにも苦しげである。
 フローラがお茶を置いたタイミングを見計らい、ウィルはさっと女中の額に指を伸ばした。

「あ。お、お坊ちゃま! な、なにを」
「うーん、熱があるね」

 本当に気をつけたほうがいいなというくらい熱っぽい感じがして、ウィルはためいきをついた。

「今日は仕事をもう休みなさい」

 ウィルはフローラの青い目を見据えながら静かに命令をした。

「え、と、トリスさまにお仕事をおおせつかって――」

 フローラは混乱した。頭が働いていないようである。
 いままでウィルが屋敷の使用人の仕事の割り振りに口を挟んだことはない。

「伯爵が王都にいる間、屋敷の責任者はぼく」

 嘘である。
 なにかあったときに伯爵から叱責されるのは、きっとトリスであろう。
 フローラの両肩に手を置いて、いままで自分の座っていたソファーのほうへと押し潰すと、

「あっ」

 フローラはつま先を放り上げ、黒いスカートのすきから白いストッキングで包まれたふくらはぎが見えた。
 戸惑うフローラをそのままにして呼び鈴を鳴らす。

「トリス!」

 ウィルの手はソファーの後ろからフローラの肩のまえに置かれている。
 フローラの鎖骨にウィルの指の先がわずかにかかっている。それを、ちらちらとフローラは気にしていた。
 まもなくトリスがやってきた。

「なんでしょうか」
「フローラの体調が悪い。今日は休ませろ」

 決定事項を知らせる口調で淡々とそう告げた。
 フローラはびくっと肩の上のウィルを見上げた。
 一応、腐っても貴族家の人間だ。
 その気になれば命令することに慣れた人間の声を発することもできる。
 ウィルは階下の世界ビロウステアーズに馴染みすぎて、使用人から愛されてはいるものの、気安さの裏返しでどこかで軽んじられていた部分があったかもしれない。

「わたしの管理が甘うございました。申し訳ありません。ご主人さまの仰せの通りにいたします」

 よっぽどトリスの返答にぎょうてんしたのか、ウィルの手のしたでフローラが肩を跳ねた。
 呼び方まで「ウィル坊ちゃま」から「ご主人さま」に変わっているのだから無理もないかもしれない。
 ただの言葉の違いだが、その言葉の響きのニュアンスとして、どこかトリスのウィルに対する忠誠心を感じさせるものがある。

「フローラ。ご主人さまから、今日はもう休んでもいいと許可が出たのですよ?」

 トリスは聞き分けが悪いとばかりにそう言った。

「あ――はい。すみません。では」

 立ち上がろうとしたフローラの膝はがくがくと揺れていた。
 休んでいいと言われて、いったん気を抜いたら、足元のこらえが効かなくなったのだろう。

「きゃっ!」

 案の定、バランスを崩した。
 ウィルはフローラの身体を腰のあたりから掬いあげてやる。

「あ、ああ……。す、すみませんッ!」

 フローラはウィルの腕の上に背筋をらしている。眼下ではフローラの胸のほどよい膨らみが上下している。
 フローラは慌てて力を入れようとするが、腰が抜けてしまったのか、うまく力が入らないらしい。
 そのまま脇の下と、お尻の下に手を回し、フローラの身体を横抱きにした。
 フローラの体格はウィルとそう変わらないが、これでもウィルは男である。
 持とうと思えば、自分と体格の変わらない女の身体ひとつくらい抱き上げられる。
 ウィルはフローラを抱き上げたまま自分のベッドへと向かう。

「あっ……あの……」

 そしてフローラを静かにベッドに横たえた。フローラは茫然とウィルのほうを見上げている。

「夜までここで休みなさい。いいね」

 ウィルが優しく命令すると、

「そ、そんな恐れ多い!」

 フローラは反射的にそう答えた。
 この金髪の客間女中は下級貴族の出身で、礼儀作法を厳しくたたき込まれているのだ。
 そこに銀のトレイを持ったトリスが口を挟む。

「フローラ。ご好意には素直に甘えなさい」
「――は、はい」

 そう言われて、ようやくフローラは主人のベッドの上で身体の力を抜いた。

(ぼくが言っても聞かないのに、トリスの言うことには素直に従うんだよね……)

 ウィルは子どもっぽく、ほんの少しだけ口を尖らせた。
 フローラは手でぽんぽんとベッドに触れると、

「あ、わあ。ベッド。ふかふか」

 そううれしそうに呟いた。
 マルク家の女中は待遇が良いことで有名で、下働きの女であろうとも綿の布団が与えられる。
 しかし、さすがに主人筋の使う上質のベッドで眠ることは初めてだろう。
 そこで、すかさずトリスが釘を刺した。

「この待遇が当然であるなんて決して勘違いはしないこと、いいですね」
「わ、分かりました」

 トリスはベッドの脇にあるサイドテーブルに、長い飲み口のついた透明の水差しと、粉薬の詰まった茶色い薬瓶を何本か置いた。
 女中長の重要な仕事の一つが、薬の調合である。

「生理痛止めを飲めば、ずいぶん楽になるでしょう」

 白く細長い指で、半透明のオブラートの上に、細いスプーンで粉薬を手際よくよそった。
 そして、それを手慣れた手つきでくるくると包んだ。

「女中を甘やかすと言い出したのはご主人さまですから。さ――」

 薬のフィルムと水差しがウィルの手に渡された。
 ウィルは、ベッドの枕元から少し離れた縁に腰を下ろし、「あーんして」とフローラに薬を差しだした。

「なんだか恥ずかしいです」

 フローラは少し顔を紅潮させながらこくりと頷き、小さいが品よく整った唇を上下に開いた。

(なんか妙に楽しいな)

 世話を焼かれるいつもと立場が逆である。
 フローラはじっとウィルの指づかいを見つめていた。
 フローラの舌の上にオブラートで包まれた薬を載せる。
 それから、透明の水差しをフローラに含ませた。ごくごくっと細くやわらかく喉が鳴り、えんしていく。

「お姫様になったようです」

 フローラは、鼻の先を布団で隠し、澄ましていれば貴婦人に見えなくもない上品な顔をぽっと赤らめた。

「ま、どうせ体調悪いときだけだよ。元気になったらまたガンガン働いてもらうからね」

 ウィルがそう言うと、フローラはくすくすと笑った。

「さ、お眠り」

 ウィルはそう言いながら、フローラのけんの少し上のあたりをゆっくりとでてやる。
 フローラも最初はくすぐったそうに金色の眉根を震わせていたが、やがて慣れたのか気持ちよさそうに受け入れた。

「ウィルお坊ちゃまの指って長くてれい。まだお小さいのに男の人って感じがします……」
「む。お小さいは余計だよ……背だってフローラを追い越してるのに」

 ここまでエスコートしてあげているというのに、なんという言いぐさか。
 ウィルは半ば本気でふんがいしていた。
 意地になって、しばらくフローラの眉間のあたりをしつように撫で続けていたら、金色の柳眉が安らいできた。
 そして、落ちるように、すうっと寝息を立てはじめた。

「あれ。眠っちゃった」

 自分でやっておいて、まさか、こんなに簡単に寝入るとは思わなかった。

「ええ。みんざいも混ぜましたから」

 トリスは本当に何気ないほどさらっと言ってのける。
 藪医者がよく使う阿片チンキを混ぜないだけ、まだ良心的かもしれない。ウィルはそう思うことにした。

「もう数時間は起きませんよ。ちょっと味見してみますか」
「え?」



◇ 屋敷の女性一覧 ◇

女中長   1人 (トリス◎)
蒸留室女中 2人 (リサ・サリ)
洗濯女中  6人
料理人   1人 (リッタ)
調理女中  4人 (マイヤ)
皿洗い女中 2人
酪農女中  3人
客間女中  1人 (フローラ)
家政女中 12人
雑役女中  8人
側付き女中 1人 (ソフィア△)
    計41人
お手つき  1人 (済み◎、途中△)


◇ 用語解説 ◇

屋敷を訪れた客人の接客や給仕をする女中職。屋敷の表側に顔を出すため、エプロンのレース飾りなど他の女中よりも服装が華やかである。
容姿に優れた未婚の女性が就く仕事とされている。裏方的な性格の強い女中職のなかでは例外的に人目に触れるせいか結婚して辞めてしまうことが多い。



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